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文学的自叙伝
ぶんがくてきじじょでん
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
初出「新潮 第三十二巻第七号(七月号)」新潮社、1935(昭和10)年7月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-22 / 2014-09-16
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 父親からの迎へが来次第、アメリカへ渡るといふ覚悟を持たせられてゐて、私は小学校へ入る前後からカトリツク教会のケラアといふ先生に日常会話を習ひはじめてゐた。先生は日本語が殆んど不可能で、はじめは随分困つたが、オルガンなどを教はつてゐるうちに私の英語と先生の日本語は略同程度にすすんだ。私は祖父から教会にあるやうな立派な燭台やストツプのついたオルガンを買つて貰ひ、母親の琴と、六段や春雨を合奏した。電灯が点いて間もない頃だつたが祖父は電気を怕がつて、行灯の傍らで独酌しながら私達の合奏を聴き、酔が回つて来る時分になると、屹度、ほツほツほツとわらふやうな声で泣いた。父親を知らぬ孫の巧みなオルガンの弾奏振りに感激するのであつた。ケラア先生は折々バイオリンを携へて私達を訪れた。祖父は鎖国思想の反キリスト教論者であつたが、そんな晩にはアメリカの息子が贈つて寄越したオイル・ラムプのシヤンデリアを燭して、最も簡単な意見を交換した。大体私が通訳官であつた。――私の父親は中学の課程からボストンに生活し、学生時代を終るとどういふわけで、また何んな程度の位置か知らなかつたが、電信技手となつて U. S. N. Stuckton なる水雷艇に乗つてゐた。造船所にも務めた。父の先輩や友人が乗つてゐる軍艦や汽船が横浜に着くといふ通知を受けると、山高帽子で紋付の羽織を着た祖父と私は人力車で国府津に出て汽車に乗つた。その度毎に私は父からの届物であるといふ洋服や時計や望遠鏡や物語本などを貰つた。私はいつの間にか、少年雑誌のセント・ニコラスや、ニユーヨーク・タイムスのハツピーフリガン漫画などを笑ひながら読めるやうになつてゐた。然し渡航する機会もなく、祖父が歿くなつて、私が中学に入つた年に、父親は第一回の帰国をした。ところが私は、はじめて見る父親を何故か無性にバツを悪がつて一向口も利かうとしなかつた。とても今更空々しくつて、お父さん――などと呼びかけるのは想つても水を浴びるやうであつた、彼は、つまらぬつまらぬと滾して国府津の海岸寄りの方へ別居した。(述べ遅れたが、私の生地は神奈川県小田原町である。)国府津町はその頃村で、東海道線に乗るためには電車で国府津へ向はなければならなかつた。自転車に乗つて父のところへ遊びに行くと、いつもアメリカ人の友達が滞在してゐた。で私もそれらの家族伴れなどの人達に交つて、ピクニツクに加はつたり、凧をあげて見せたりするうちに、彼等と一緒になつて彼等の習慣の中であると、自然に父親とも親しめるやうになり、父と子は相対する場合でない限り、英語で口を利いた。私は、小学でも中学でも凡ゆる学科のうちで綴り方と作文が何よりも不得意で、幾度も〇点をとり、旅先などから母親にでも手紙が書き憎くかつたのであるが(母は私のハガキでも、私が戻るとそれを目の前に突きつけて、凡ゆる誤字文法を指摘した。第一…

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