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緑の軍港
みどりのぐんこう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
初出「読売新聞 第二〇九九七号~第二〇九九九号」読売新聞社、1935(昭和10)年7月24日~26日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-26 / 2014-09-16
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 いつの間にかわたしの部屋の壁には、いろいろな軍艦の写真が額になつて、あちこちに並び、本棚の上には「比叡」と「那智」の模型が飾られ、水雷型の筆立には巡洋艦「鈴谷」進水式紀念の軍艦旗とZ旗があつた。「比叡」と「那智」の模型は、それぞれわたしが拝乗の機会に浴した思ひ出の為に材料を買ひ集めて組み立てたものである。近日中にエンヂンを取り付けて競技会へ出場させて見ようと考へてゐる。わたしは去年の秋、軍港街に移ると間もなく「鈴谷」進水式拝観の光栄に浴し、続いて駆逐艦「しぐれ」特務艦「剣崎」の進水式に参列の栄を得て、ひたすら胸を躍らせ、行状の謹慎を保つた。わたしの壁の写真の中には閃く海神鉾に翻へる久寿玉から五彩のテープが舞ひ乱れ、翼の音も軽やかな数羽の鳩が放たれた瞬間に堂々たる巨体を、あはや麗かな海上へ乗り入らうとする処女艦の英姿があつた。
 わたしはさういふ自分の小さな部屋で、造船作業の為に夜を更かすことが多かつた。五分刈頭のわたしは、夜になると、街の被服商で購つて来た海兵用の白の作業服を着て、一服喫すといふ場合には、徐ろに胸のポケツトから、先頃「しぐれ」進水式の折に拝領した銀製のシガレツト・ケースを取り出し、高射砲型のライターからパチンと火をつけた。
 この横丁は街中で最も繁華な大通に側して崖際の露路であつた。全く同じ造りの二階家が数軒並んで、隣の二階にもわたしと同じやうな姿の若い士官がゐて夜更まで灯りの下で勉強して居り、そのまた隣も海兵の合宿所で時々、今日ハ手ヲ取リ語レドモ 明日ハ雲井ノヨソノ空 行クモ留ルモ国ノタメ 勇ミ進ミテ行ケヨ君――と合唱する聞くだに健やかな血の湧き立つ軍歌が響いた。わたしは何も彼も忘れるといふやうな恍惚の想ひに打たれるなどゝいふ機会に、凡そこれまで出遇つた験もなく、終ひにはふら/\病になつてゐた折から、はじめてこの街に移り艦を眺め戦闘機を見あげ、軍楽隊の大行進に力一杯のテープを投げ……いつかわたしは何の不安も疑惑も知らぬ偉大なる感激家に化してゐた。自分のことなどには何の未練も後悔もなく、時に、遺書なりと認める必要に出会ふ折もあれば、勇敢なる杉野兵曹長のそれと同様に簡単明瞭なる一札で充分であると思はれるばかりであつた。
 それはさうと、このわたしの窓の下はそんな繁華な大通りの側面でありながら、急に暗くなつて、夜更けまで主に脚どり厳めしい兵隊靴の音が絶えなかつたが、その脚どりの中に毎晩爽やかな横笛の練習をしながら戻つて来る者があり、余程の熱心を籠めて吹奏するらしいその節廻しがいつもわたしの夢をほろ/\と誘ふおもしろさなので、一体何んな人なのか知らと憧れて、そつと見降ろすのであつたが、一向姿は定かではなかつた。深い泉水の底に眺める鯉のやうに淡く、吹奏者の姿は忽ち闇の彼方に吸はれて行つた。
 最初にわたしがその吹奏の歌を聞きはじめたのは、未だあたり…

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