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浪曼的時評
ろうまんてきじひょう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
初出「文藝 第三巻第八号(八月号)」改造社、1935(昭和10)年8月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-30 / 2014-09-16
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 先月は殆んど一ト月、新緑の中の海辺や山の温泉につかつて文字といふ文字は何ひとつ目にもせず蝶々などを追ひかけて暮し、その間に何か際立つた作品が現れてゐたかも知れないが、それまでは今年になつてからといふものわたしは、その読後感を誌す目的で毎月つゞけて月々の多くの雑誌を読んで来た。大体可もなく不可もなく、純文学派に多分の通俗的脈絡が鮮明になつてゐるようであり、単に文字の扱ひ振りや修飾の度合に依つて文学的形式を保たうとするが如きものも見享けられるのであるが、要するに作品のおもしろさなどゝいふものは至極簡明なものに違ひなく、作家自身の主観上の芸術的燃焼と創作形式との適度なる合致に帰着すべきが理の当然であり、如何に高邁なる精神の発揚であらうとも難解に過ぎたならば多くの読者に理解される気遣ひもなし、また如何に大きな舞台を取材となし、万華なる物語の組立が積み重ねてあらうとも、作者なる「私」の呼吸がいはれもなく通俗的であつたならば、読者の真の興味はつなぎ得ぬであらう。斯んなことは誰しも解つて居る事柄であつても、理窟通りには容易に運ばれぬのが、つまりこの場合に於いては文学の妙であり、どうしたつて作者たるものは徹底的に自己内心の奥底へ向つての凝視を保ち、結果としての無辺なる大呼吸へ達すべきが道理であるだけだ。それ故、誰の何ういふ方法を批難するわけでもなく、いちいちの作品についての或る程度の好しあしを云ふ位ひ安易なことはなからうと思はれる。云はるゝものゝ不満もさることなから、云ふものゝ貪婪さも自ら胸の充される気遣ひはないのである。小説も批評も凡人の場合に於いては元より職業としては不向なものであり、それをもつて普通の生計を立てようとするところからさまざまな矛盾が起り、不思議な自負心に逆上したり、あたら才能を歪めてしまふ結果になつたりするのではなからうか。創作家はやはり特に物質上の満足を希ふことなしに、あらゆる不幸と自然現象の順応に身を任せることが、尤も至極なる成長への一手段ではなからうか。
 いつもわたしは文芸雑誌を先に読み、主に新作家のものにふれて来た。回想して特にあざやかな印象に残つてゐるものは、別段このごろは見あたらなかつたのであるが、だからと称して一概に新人の無能呼はりを為すにはあたるまい。徳田一穂氏の作品など、一種の既成観念から見られて、寧ろ気の毒なる評言を浴びるかのようであるが、全く冷静なる読者の眼から眺めるならば、一作毎に可成りの進展も見られ、優に一家を形成しつゝあると思はれるのである。特別に目を視張る如き興味に富んだ派手なる感じは享けぬ代りに、その初期の作品に比べて、これほど地道な、そして読むにつけあざやかな飛躍を発見成し得た作家をわたしは他に求められなかつた。また近頃主に早稲田文学のみに立て籠つてゐるところの田畑修一郎氏と尾崎一雄氏など、おそらく更に作家的生活期に…

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