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ペルリ行
ペルリいき
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-22 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私は昨今横須賀に住んで、夙に病弱の療養に専念してゐる。それを第一の仕事にしてゐる。小田原からここに移つて、二ヶ月あまり経つた。私にとつての療養の第一は酒を慎しむことである。寧ろ絶対に酒の色香を忘れなければならぬのである。私は従来、あまりに久しく恋愛に迷つたためしはないが、それでも昔学生服を着てゐた時分に、忘れ給へ、忘れ給へ、否応なく忘れるより他はどうするといふ術のありやう筈はないんだもの――といふやうなことを友達から云はれても容易に忘れることの叶はなかつた一つ二つの思ひ出は持つてゐる。忘れられないで、半年も一年もぼんやりして独りで汽車に乗ることを専らにしたこともあつた。ところが昨今僕は、そんなことを云ふ友達は在る筈もないのだが、酒を飲みたがらうとする自分に向つて、別の自分が友達となつて、忘れ給へ、忘れ給へ、否応なく忘れるより他は――と忠告して、天気でありさへすれば散策へ誘ひ出すのだ。軍艦を見学し、飛行場へ通ひ、またあちこちの灯台を訪ねた。今日は家内と連れだつて浦賀へ向つた。湘南電車の終点から久里浜へ向ふバスに、「ペルリ行」といふ札が掛つてゐた。土地の者らしい人は、皆な、ただ、「ペルリ」と云つて切符を買つた。僕は、あの、……あの……その、ペルリの記念碑のあるところまで、と吃つて切符を買つた。そして私はあわてて案内書を読みはじめてゐた。「……湘南浦賀駅ヨリ県道ニ添ウテ浦賀園ヲ左ニ見ツツ久里浜村ヘ入リ、村役場前ヲ左ニ折レテ十余町スレバ浜辺へ出ルナリ、即チ茲ハ嘉永六年六月九日米ノ水師提督ペルリ氏ガ吾ガ幕府ナル井戸石見守浦賀奉行戸田伊豆守等ガ衝ニ当ツテ応接セル所ナリ、(略)此ノ記念碑ノ前ニ立チテ史ヲ繙キツツ当時ノ劇的情景ヲ想起シ六十余年後ノ今日ニ思ヒ至レバ、ウタタ感慨無量ノ念ニ駆ラレザル者ヤアラン(略)ペルリ氏一行ヲ応接所へ先ヅ案内シタルハ浦賀ノ与力中島三郎助ニシテ、アタリノ警備ノ物々シサハ実ニヤ言語ニ絶シタル厳メシサナリキ、中ニハ干鰯俵ヲ積ミ重ネタル其上ニ野砲ノ筒先ヲ揃ヘテ威嚇ヲバ試ミ、ハタ又千代ヶ崎ナル平根台場ニハ多クノ釣鐘、半鐘ノ口ヲ並ベテ海ノ上ナル黒船目ガケテ向ケ置キシ等今日ニシテ考フルナレバ実ニモ誠ニ噴飯笑止ノ至リナリ。」
 私はその如き文章を読んだが、いささかも噴飯ノ至リ、にはならなかつた。忘れ給へ、忘れ給へと専らに唱へてゐるのだが、運動の效目を覚えれば覚えるほど、恋しい人に別れた後のやうな、冷たいやうな、切ないやうな、一条の光のやうな箭に、間断もなく颯々と胸先を射られて来るのであつた。あのやうなものの色香に迷つてはならぬ、攻め寄せて来る煩悩ならば鋒を構へよと胴震ひして、眼を据ゑるのであるが、私の台場に筒口をそろへる威嚇砲は、やはり釣鐘や半鐘の擬態であつて首尾好くそれで嚇し切れれば物怪の幸ひだつたが、火花を散らす実戦のあかつきを想像すると、誠に戦々兢々た…

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