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月下のマラソン
げっかのマラソン
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少年 第一九四号(月世界探検号 十月号)」時事新報社、1919(大正8)年9月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-05-25 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 ……去年の春だつた。七郎は一時逆車輪を過つて機械体操からすべり落ち、気を失つた。
 ふと吾に返ると沢田が汗みづくになつて自分を背負つてゆく。紅く上気した沢田の頬に桜の花が影を落してゐた。――その儘又沢田の背中で気が遠くなつて、病院の一室に、心配さうに凝と自分の顔を瞶めて居る沢田を見出したまでは、七郎は何にも知らなかつた。
 同じ年の秋、T中学と対校マラソンが催された時、二人は選手の任を帯びて出場した。二人の勝利は自校の名誉を輝かしたのであつた。その時沢田は悦びのあまり、自分の手を堅く握つて、
「岡村君! これは皆君のコーチのおかげだよ。――僕達二人は一生互に援け合うて暮さうね。」といつた。
 沢田の事を想ひ出せば、七郎には未だこんなことは限りもなく数へられた。今迄沈むだ顔をしながらも競走の練習をして居た七郎は、運動場の隅の腰掛に腰を下した。七郎は目の前に沢田の幻を見た。と、もう一足でも走ることは厭になつてしまつた。見る間に両方の眼は霑むで来た。涙が胸まで込み上げて来た。
「沢田君! 何故君は僕を残して行つたんだ?」七郎は眼を上げて、思にず溜息をついた。
 沢田は、その夏丁度七郎が止むを得ない父の用事で遠方へ旅行中、二人でよく毎日乗りまはした燕(沢田が命名したボート)に乗つて唯一人沖へ出た。
 燕は急潮にすべつたに違ひない。でなければあれ程腕のさえた沢田が進路を過る筈は絶対にない。――燕が何処まで流されたか、それは沢田より他に知る人はないが、その日の夕暮から霰のやうな雨が、海の魔と握手したかのやうに降り出した。怖しい土用波は、一瞬にして燕と最愛の友とをあはせて、海底に拉し去つた。
 一ヶ月も経つてから燕の破片が、波打際で七郎の手に拾はれた。七郎は朝となく晩となく海辺に来ては、遥かの沖を眺めてゐたのであつた。
 七郎はその破片で、机の上に置ける程の燕を形造つた。木屑は香の代りにいぶして、逝ける友の俤を偲むだ。
「岡村君!」と突然自分の名を呼ばれたので、七郎はハツと気付いて後を振り向くと、級友の米村が猛烈な勢ひで駆けて居た足を止めて、
「どうしたんだ! 何をぼんやりして居るんだい。明日は愈々予選会ぢやないか。今年が第二回目の戦なんだから、今度の成績で君の記録、いや、この学校の名誉が永遠に定るんだ。僕も頼むから確りやつて呉れよ。」といつた。
「あゝ。」と七郎は返事はしたものゝ、気は益々滅入つてゆくばかりだつた。
「さあ。」と米村は再び手を取つて促がした。運動場はまるで大きな廻り灯籠のやうになつてゐた。校長までが出張つて皆の練習を励ましてゐた。多勢の生徒等は、目をむき出し、唇を噛むで練習に余念がなかつた。
 七郎は仕方がなくまた駆け出した。その後を米村が一所懸命に踏むで行つた。金色の小春日が二人の後姿を照らした。空は水のやうに晴れて居た。



 その秋のマ…

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