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やぶ入の前夜
やぶいりのぜんや
作品ID52878
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少年 第一九七号(新年号)」時事新報社、1919(大正8)年12月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-04-19 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 バリカンが山の斜面を滑る橇のやうにスルスルと正吉の頭を撫でゝゆくと、針のやうな髪の毛はバラバラととび散つた。正吉は一秒一秒に拡がつてゆく綺麗な頭の地ををさへ切れぬ悦ばしい心で凝と鏡の中に瞶めて居た。正吉の心はたゞ嬉しさばかりに躍つてゐた。何日前から明日といふ日を待構えて居たことであらう。幾十遍同じやうな夢を見て暮して来たのだつたらう。愈々その夢がほんとに明日は実現されるんだもの……何時間かの後には輝かしい故郷に帰ることが出来るのだ。この頭を刈つてしまつて、夜が明けさへすれば五年目に会ふ懐しい家庭へ行くことが出来るのだ。父は何と云ふだらう、母は何と云つて迎へるだらう、たつた一人の妹はどんなに大きくなつたらう――尤もいつかの春、一家族の写真を送つてよこしたが、それは今更のことではないけれど、写真を撮るとなるとどうしてあんなにすましてしまふのだらう。まるでかうしなければ写すものではないといふ犯すべからざる規則でもある様に四角張つて、袴をはいたり紋付の羽織を着たりして看板のやうに固くなつてゐる。到底それが笑つたり泣いたりする動く人とは思はれない程すましたものだ。――写真を凝と眺めてゐると、それが親しみのある人物であればある程、正吉には名状し難い不思議な感情が涌いて来るのであつた。だから正吉は写真など貰ふと、却つてもう再び会ふことが出来ないやうな気がして、悲みの涌くことが多かつた。
「おや君の頭には傷があるんだね。どうしたのさ。」と床屋の若い者はバリカンを動かしてゐた手を止めて、鏡に写つた正吉の顔を見て云つた。
「えゝ――ちよつと……」と正吉はそれに答へようとしたが、何となく云憎さうに黙つて首を垂れてしまつた。若い者はそれ以上尋ねようともせず、又バリカンを動かし初めた。
 ――その写真を受取つた晩のことだつた。正吉は寝床にもぐつてからも長い間、袴をはいた父や紋付を着た母などの並んで写つた写真を見てゐたのだつた。
 ――ハツと思つて正吉は飛び起きた。と一所に正吉はゴツンと強く柱の角に頭をぶつつけた。で眼がさめた。夢を見たのだつた。

(正吉がどんな夢を見たのだつたか、私はわざとこゝに記しません。それは読者諸君の想像にお任せいたします。)

「正どん、どうしたんだい?」
 其の音を聞いて吃驚してとび起きたのは、直ぐ隣に寝てゐた正吉の一番仲の善い春どんだつた。
「正どん! 頭から血が出てゐるぜ……」
 春どんは正吉の肩を強くゆすぶつた。――その時初めて正吉は自分の顔をだら/\と流るゝ血潮と、今のが夢だつたのだ、といふことを明瞭に感じた。と正吉は急に胸が一ぱいになつた。ワツと声を挙げて泣出してしまつた。さうして春どんに抱着いた。……なか/\正吉の涙は止らなかつた。――どうすることも出来なくなつて春どんも一緒に泣いてしまつた。
 それでもどうにか春どんが深切に洗つて呉れたり、…

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