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嘆きの孔雀
なげきのくじゃく
作品ID52879
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少女 第八十六号(二月号)~第八十七号、第八十九号~第九十一号、第九十三号(九月号)」時事新報社、1920(大正9)年1月6日~2月、4月~6月、8月6日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-20 / 2016-01-30
長さの目安約 44 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 ある寒い冬の晩のこと

 随分寒い晩でした。私は宵の中から机の前に坐つて、この間から書かうと思つてゐるものを、今晩こそは書き出さうと、一所懸命に想を凝らして居りました。――ところが余り寒いのでついペンをとる筈の指先は火鉢の上を覆ふやうになつてしまふのでありました。窓の外には目に見ゆる程な寒気の層が湖のやうに静かにたゞずむで居りました。火鉢の上に翳して暖たまつた私の眼で、硝子越しの寒い暗い光景を眺めてゐることは私のやうなものにも神秘なお伽噺などが想はれて、――「冬の夜」といふものが心から情しく嬉しく思はれるのでした、ものを書くなどゝいふ面倒なことをするよりもこうしていつまでも沁々と冬の夜を味はつてゐた方がどの位いゝか知れないと思ひました。あの有名なシエークスピヤの「冬物語」といふ、――ある寒い冬の晩、外には音もなく降る雪が断え間のないのを窓に見ながら、赫々と炎ゆるストーブを大勢の人等が取り囲むで、ある一人の詩人が最近に作つたお噺をするところ、テーブルの上の古いランプの灯影は一心に耳を傾けてゐる人達の横顔を画のやうに照してゐる……炎え盛る火と切りに降る雪と葡萄酒の香りとに抱かれて過ぎゆく冬の夜……を想つてゐた方がどれ位心に合ふか知れないと思ひました。――雪こそ降つてゐませんでしたが、湿つた夜の黒い空は私の窓の前迄泌みよせて居りました。まるで私は湖の底に坐つてゐるやうに思はれました。窓側をかすめてハラリと散つた梧桐の一ト葉を、私は湖に泳ぐ魚かと怪しむだり、朝母が活けて呉れた床の間の花を水底の藻かと思つたりしました。私は魚になつたかのやうな気持で煙草をすぱりすぱりと吹いては、煙が室の空気に溶けて終ふまで眺めました。煙が消ゆると又新たに吹きました。――いつ迄たつても際限がありませんでした。で、さあ書かう、と夢から無理に醒めてはみても、矢張り夜と睨めくらをしてゐる方が、余程美しい世界に居られるのでペンを執る気にはなれなかつたのです。
 いつまでこうして居ても限りがないから暫くの間母とでも話して気分を取り直さうと思つて室を大変散らかしたまゝ私は茶の間へ行きました。
 茶の間では妹の美智子が火鉢を囲んで何やら母と面白さうに話して居りました。
「今ね、兄さんに解らないとこが出たのでお尋ねに行かうと思つたら、母さんが兄さんは今御勉強だから後になさい、ておつしやるので此処でお待ちしてゐたのよ。」
「学校の事なの?」
「えゝ、さう。」と云ひながら美智子は自分の室の方へ駆けて行きました。
「若し差支へがなかつたなら少し教へてやつておくれな。先程から待つてゐたんですから。」と母に云はれた私は、別に勉強も何もしてゐなかつたのを母や美智子はそんなに遠慮してゐて呉れたのかと思ふと――笑ひ度いやうな気の毒なやうな淋しいやうな……解り易く一口に云へば悪かつたといふ気がしましたので、
「ハヽヽ…

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