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辞書と新聞紙
じしょとしんぶんし
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少年 第二〇〇号(二百号記念号 四月号)」時事新報社、1920(大正9)年3月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-05-28 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 あるところに大層偉い王様がありました。お国は大へんよく治つて居りましたが、たつた一つ王様にとつて心配なことがありました。それは王様には王子様が一人も無いといふことなのです。王様は常々からこの事を非常に心配して居られました。
 ある時王様は国中にお布令を出しました。そのお布令は、人民の中から王様の試験に合格した者を王子として選ぶといふのでした。
 このお布令が出るやいなや国中の少年達は、にはかに大勉強を始めました。街の本屋では学術書は忽ちに売切れとなりました。街の図書館は早朝から夜半まで一分の隙もなく満員となりました。
 公園の鞦韆は寂しさうに垂れ下つて居りました。小川のボートでは蝶がゆつくりと安心して日向の夢に耽つて居りました。美しい春の野辺はかすむがまゝに霞がたな引いて、朗らかな空の下にもたれ一人遊んで居るものなどはありませんでした。



 一月の間で、ラテン語の字引を一語も洩らさず暗記してしまつた少年もありました。ギリシヤ語の由来、エジプトの象形文字の訓読などを悉く覚えてしまつた少年もありました。大概の少年はお父様から何十冊といふ字引を買つて貰ひました。ラテン語とギリシヤ語と数学と世界の地理と歴史とを知らない者は皆無といつてもよい程になりました。
 この街に一郎といふ少年がありました。一郎の家には余計なお金が一文もありませんでした。ですから一郎は一冊の字引を買ふことも、図書館へ行くことも出来ませんでした。一郎は学校へ上つたこともないのです。一郎は試験をうけにゆく気はありませんでした。行つたところで、エジプトの文明史さへ知らない自分は勿論恥をかくばかりだ、と思つて居りました。
 希望をもつてゐる者だけが出るといふのなら、一郎は無論行きはしませんでしたが、町の少年は残らずこの試験をうけなければならなかつたのです。一郎は随分困つて居りましたが――この場合、いろはの本だつて誰一人一郎に借すどころではありませんでしたから――何と云つても一郎は不断のとほりに朝になれば羊を伴れて牧場へ行くより他はありませんでした。
 試験はいよ/\明日に迫りました。一郎は朝早く起きて、羊を伴れて野の小径をポツ/\と歩いてゆきました。一郎は王子になりたいなどゝいふ考へは少しもありませんでしたから――一郎の心は空と同じやうに晴れ渡つて居りました。一郎は口笛を吹きながら羊を追つて面白く野原を駈け廻つて居りました。春の花草は絵のやうに咲き乱れて居りました。いつもなら大勢の子供達が遊むで居るのですが、この頃では、この広い野原が一郎ひとりのものになつてしまひました。一郎は心ゆくばかりに小鳥の心にもなつて高らかに歌をうたつたりしました。一郎は悉くのことを忘れてしまつて、たゞかうして春の麗かな野辺に坐つてゐる身を、無上に喜んで居りました。



「一郎さんじやないか。明日は試験だといふ…

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