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若い作家と蠅
わかいさっかとはえ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「十三人 第二巻第七号(七月号)」十三人社、1920(大正9)年7月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-07-08 / 2014-09-16
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

ある時は――
 苔のない心
 うれしい心
 くもつた心――悲しい心。

          *

「つまらないの?」と、光子は自分が余り熱心に舞台に気を取られてゐるので、此方に気の毒な気がしたのだらう、軽い笑顔を作つて、突然此方を振り向いて云つた。自分は居睡りの真似をしてゐた。若し光子がその時――もう一秒間その儘の笑顔を保つてゐたら、自分は屹度「つまらなかないよ。」と悦びさへ感じて、義理にも答へたであらうが、光子は眼ばたきひとつしないで、またぢつと舞台を瞶めてゐるので、
「あゝ、つまらない。」と答へた。彼の声が腹の底で低かつたので光子には聞えなかつたのかも知れない、光子は此方などには頓着なく(それも仕方がないとは思つたが、)一心に向方を見て居るので、「チエツ」と自分は思つた。軽い失望と嫉妬と滑稽さとを感じた。
 つい以前、光子と二人で近所の活動写真を見に行つた時、その時の写真は召集令といふ出征軍人の家庭を写した悲劇だつた、初めに召集令の降るべき村落の景色が映つた、畑を耕す無心な農夫、さんさんと流るゝおだやかな川、「やがてこの静かな村にも召集令は降るのであります。」と弁士が轍の軋るやうな詠嘆的なイヽ声色で叫んだ時、見物人はひとりも拍手しなかつたが、自分は突然ホロリとした。芝居なんか大嫌ひだ、くだらない、と自分は常々光子の芝居好を苦々しく云つてゐたのだつたが「何だい、活動を見て泣いたくせに。」と、反つて侮辱されて仕舞つて、然し自分は自分のその心持を説明するのは他合もなかつたけれど、虚栄心の強いハネツ反りの光子では到底駄目だ、とあきらめてゐたので、――。
 黙つて芝居のお供はしたが、それに、「妾あの役者に恋したわ、だつて全く綺麗だわ。」などと云ふことに依つて此方の愛と嫉妬を脅迫するやうなことを直ぐ光子は云ふので、と自分は思つたので仕方がなく顔を上げて舞台を見た。
 舞台では×右衛門の三千歳と△左衛門の直次郎とが盛んにあだつぽいしぐさを演つてゐた。見物席は一塊の大きな呼吸器になつたかのやうに静まつてゐた。吐息の隙を狙つて「×○屋ツ。」と声が掛つた。若しかゝる素晴しい大声を往来で発したならば優雅な士女は気絶するであらうに、その時だけはその大きな声が極めて自然のものとして許される。
「いゝわね。△屋。」と光子が云つた。然しその時には自分も光子の存在を忘れて居た程、舞台に熱心になつてゐたのに気が附いた。自分は役者のしぐさを透して、それとは非常に掛け離れた荒唐無稽な幻に酔つてゐたのだつた。で一分間前の光子と自分との位置が転換された如く、光子には映つたかも知れない位だつた。
 光子は袂の下からそつと此方の手を握つた。自分はその手を指先でピンとはじいた。
「怒つてゐるの?」
「怒つてやしないよ。」
「面白い?」
「あゝ。」自分は光子の言葉に対して極めて消極的な調子で、「少し面白…

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