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公園へ行く道
こうえんへいくみち
作品ID52900
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「十三人 第三巻第五号(五月号)」十三人社、1921(大正10)年5月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-10 / 2014-09-16
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「散髪して来よう。」
 さう、思ひつくと、彼は、膝の上の夕刊を投げ棄てゝ、安座からむつくりと立ちあがつた。立ちあがつた彼は、如何にも退屈らしく「ウーム」と云つて大きな伸びをした。その彼の伸びは、彼が故意にさうしたのだつた。立ちあがつた動作が余りに唐突で、――といふ気がした彼は、ふと叔母の視線に触れて、ひよいと軽いながらも白けた感じをうけたので、それを、安易さをもつてナチュラルに解決しようといふやうな心で、さうしたのだつた。
「勉強?」叔母は縫物の手を止めて、彼に釣り込まれて思はず休息したかのやうに、両肩をこゝろもち落して彼の方を見あげた。丁度、彼の伸びが終らうとしてゐるところだつた。隣りの家から琴の音が洩れてゐた。冬が終らうとしてゐる静かな生温い宵だつた。叔母は、直ぐに手の先を動かし始めてゐた。
 さうと、叔母に何気なく云はれて見ると、彼は無意味な不安を感じた。
 ……俺は今、寝転むだ儘、退屈を紛らすために、叔母を相手に極めて無意味な話だけをしてゐる、叔母は十分な、俺の相手である。二人は二人の間の雰囲気を同程度の力を分けて各々保つてゐるのである。然るに叔母はさうしてゐながら立派に自らの仕事を運むで行く。つまり俺の全部の力は叔母の何分か一の力に依つて容易く限定されてゐるわけである。
「ほんたうだ。」……
 一刻前彼はそんな愚考に割合に強く焦かれて、たしかたつたそれだけの原因で、寝転むでゐた状態を安座に戻したらしかつた。――それから、今ふと立ちあがつたのである。だから彼は、「散髪に行かう。」と思つたことは、その妙な焦燥に似た心に対する言訳のやうにも感ぜられて、伸びが終つた頃にはもう出掛けることは大儀な気がした。
「もうそろそろ試験でせう?」
「いゝえ。」
「だつて……」
 もう少しで彼は叔母に酷いことを云ふところだつた。――が、帯を握つた両腕をウンとこきおろしながら、相対的の調子を強ひて含めずに、
「こりやどうも少し飯を喰ひ過ぎたぞ、ウーン。」と、そんな独り言を呟くと、また、坐つてしまつた。さうして鉄瓶の胴腹をピンピンと指先ではじいた。
「降るかしら。」と叔母は云つた。
 そんな質問に答へるのが「寂しい」やうな気がした彼は、黙つたまま、努力してその自らの心を傍観しようとしてゐた。
「夕方から急に陽気がゆるんで来たから、こりやあ、どうもあやしいよ、雨だよ、屹度。」
 まだ叔母はこりずに、と彼は思つた。――と、彼は、こんな些細な茶飯事に……であればあるだけ自らの愚かしい邪推が気の毒になつて、酷く自分を憎むだ。けれど、かうなると僭越な心ばかりが先に立つて、叔母と調子を合せる為の決心の裏は倦怠ばかりではあつたが、仕方がなく、
「降るかしら?」と、叔母の言葉を追ふことで辛うじて答へた。さうして彼は、叔母の方を見た。叔母がこれに答へないでも其場の雰囲気は極めて自然なものであ…

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