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痴想
ちそう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「早稲田文學 第一九〇号(九月号)」早稲田文學社、1921(大正10)年9月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-05-17 / 2014-09-16
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私は岡村純七郎の長男で純太郎といふ名前である。私の家の伝来の風習で長男には必ず「純」の字を通り名として用ひてゐるさうだ。――私が生れた時、私の名前に就いて父は少しは頭を悩ましたらうか、種々な名前を考へたらうか……いや、そんな筈はあるまい。至極単純な頭悩の所有者である彼は、愚かな伝統を尊重――と云ふより寧ろ単なる不用意な考察で――それで私の名前なるものが制定される。
「返つて斯ういふ方がいゝよ。」純七郎はお神酒をチビチビ飲みながらビラを見上げて云つた。
「太郎なんて厭ですわね。もう少し何とか考へがないものでせうか。」と母は甘えながら不平を鳴らす。母は十七歳で父が二十四歳で、彼等は熱烈に恋し合つてと云ふ噂だが――然し多分母の方はそれ程でもなかつたらう、純七郎の容貌に比べたら彼女の方が数等優つてゐたであらうことは、現在でも一見して想像がつく――十七歳の母を想像すると、私は極めて快い幻に恍惚とする……私は様々な情景を想像した。
「何だ! つまらないことを考えてゐる。」と、私はその安価な幻を吹き飛して――一度立ち上つて再び机の前に坐り直すと、抽出しから既に先刻から何回となく繰り返して見たところの一通の手紙を取り出した。その封筒の表を返して机の上に置くと腕組をした儘ぼんやりその表書を瞶めてゐた。
「×区××町××番地 岡村純太郎様」
 草書の巧みな筆蹟を、変な気持で眺めてゐた。「文字ツておかしなもんだな。」――そんな気がした。封書の中の長い手紙――あれが、そんなにもこの俺を悲しみの底に突き落したのか、俺はその文字を読むで一刻前泣いたのだつた――そんな予猶らしい洞ろさが私の意識をキヨトンと覆つてゐた。――「人間が知らない言葉を自分だけが知つてゐるやうな時がある。」たしかそんなやうな意味の歌が啄木のものゝ中にあつたことを、私はふと思つた。同時に瞬間のその夢を醒まして私は自らを冷笑した。
 女に捨てられたといふ単純な原因で、悲しみの余り私がこんな途方もない妄想の逃場に走つてゐることは無論である。芝居の道具立のやうに簡単で安ツぽい私の心情であるから定り切つたその原因で――遂々悲しみにさへ堪えられず、茫漠と頭の意識が煙つて了つたのである。だから、
 ――到々あの恋しい女に捨てられてしまつた――私の心の動きはちよつと緩むと直ぐにその悲しみに眼醒める、今更のやうに新しい悲嘆がムツと胸一杯に拡がる、その他に一微の間隙もなく。寂しさと未練と嫉妬とが、日向葵の花の風車のやうにクルクルと回つて炎えたつ。
 私は口惜しさの余り、その手紙を引き裂かうとする――未練さの余り、役者のやうに醜い顔付をして仰山にも、手紙に接吻をする――すると私は、このやうに悲嘆の余り胸をかきむしつて、無気味な肉体をのたうちまはし、ラオコーンのやうに怖ろしい苦悩に虐げられてゐる光景が――何だか猛烈に痛快なやうな気がして…

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