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ほたる
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「少女 第一一七号(菊月の巻 九月号)」時事新報社、1922(大正11)年8月8日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-05-31 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



「今夜こそ書きませう。……えゝと何から先に書かうかしら? ……候文も古くさいし、言文一致ではだら/\するし……」
 光子さんは、紙をひろげてペンを執りましたが、何から先へ書いたらいゝか? と思ふと、迷はずには居られませんでした。一年程前に別れた春子さんに、今夜こそ手紙を書かなければならないと思つてゐるのです。それはもう、四日も五日も六日も前から始終光子さんの心を離れずにゐるのでした。考へてゐること、是非知らせなければならないこと、春子さんに別れて以来どんなに寂しい日を送つたか――書きたいことばかりが沢山あつて、どうしても筆が心に伴ひませんでした。
 思ひきつて書きはじめては見るのですが、一二枚書いて読み直して見ると書かれた「文字」は妙に冷い感じがします。心のまゝの懐かしさが、どうしても文字の上には見出されないやうに思へてなりません。と、云つて光子さんには、友の涙を誘ふやうな言葉は如何しても使へませんでした。わけもない悲しさや寂しさを訴へるやうな、とりとめもない文字――例へば詩のやうな、歌のやうな飾つた文字を使ふことは、妙に恥かしくて用ふる気になれませんでした。
 そのくせ、心は極めて涙もろくなつて居ります。月の美しい晩、ひとり窓辺に凭りかゝつて月を眺めてゐると、遠くの空の下で、今宵春子さんはどんな思で、この月を眺めてゐるだらうか――そんな事を思ふと知らず知らずの間に涙がこぼれて来ます。けれどもそんな心は、誰だつて味ふことで、自分ばかりが取りたてゝそんなことを書くのは変に思はれるのでした。勿論こんなことは些細な事柄で、もつともつと、ほんとうに悲しいこと、寂しいこと――あゝ、それを何から書きはじめたらよからうか――と思ふと、光子さんは堪らなく心がジク/\するばかりでした。――光子さんは、深い溜息をついて、ペンを置きました。



「……あの頃のことを思ひ起すと、ほんとに夢のやうな気がします。私達は何といふ幸福なことだつたでせう。私は毎日いろんな楽しい「思ひ出」にばかり耽つてゐます。かうして、この「思ひ出」が続く限り、私は幸福でなければなりません。昨日私は、あの頃使つた英語の読本を、ふと取り出して開けて見ましたら、その頁の間にクローバの葉を見かけ出しました。それはもう枯葉色に凋んでゐました。いつかの春、光子さんが学校の花壇で探して、私に下すつたあのクローバでした。光子さん、もうお忘れになつたでせう。」
 此の間春子さんから来た、長い手紙の一節にそんな言葉のあつたことを、光子さんは思ひ出しました。
「何のしるしでしたつけ!」と春子さんは、その時微笑みながら光子さんに訊ねました。
「ひどいわ、春子さんは、御存知のくせに。」
「でも、教へてくれない?」
「いやよ。」と光子さんはわざと素知らぬ振りをしたりしました――いつまでもいつまでも姉妹のやうに仲よくしてゐる自…

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