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鞭撻
べんたつ
作品ID52912
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「象徴 第四巻第九月号」象徴社、1922(大正11)年9月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-05-22 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は台所の隅へ駈けこむと、ながしもとで飯の仕度を手伝つてゐる母の袂にとり縋つて――仙二郎と一処に行くのは嫌だ、と云つた。が大声で喚くわけにもゆかず、たゞ無暗に鼻をならして駄々をこねた。
「どういふわけで、そんなに嫌なの……変だね。」母にさう追求されても私は決してその理由は審かにしなかつた。
 どうあつても母は私に同意の色を示さないので私は不平の余り口惜し涙を滾すと、プツと頬ツぺたをふくらませて玄関へ来て了つた。さうして障子にとりついて、舌で障子の紙を舐めてゐた。
「お父ツちやん早く行くベエツたらよう、俺アもう飯なんぞ喰ひたかアねエだよう、こんなにぐづ/\してゐたら競馬はおしめエになつちまふづらアな。」
 次の茶の間で祖母と話してゐる父親にかぶり付いて切りに仙二郎は強情をはつてゐた。仙二郎の声はキイ/\と高い調子で、カツと他の声を圧へつけて了ふ騒音だつた。
 何といふ憎い声だらう――私はさう思つて思はず顔を顰めた。
「今朝ツからどうもこれに酷い目に遇ひつゞけで……加けに今日は馬車がおそろしく混んで、その中で始めから終ひまでこの通りで、もうさん/″\でござんした。」と云ひながら父親は「仙二郎、おとなしくしねエか。うちぢやねエんだぞ。」と叱つたが少しも父親の威厳は徹らず却つて仙二郎はワツと大声を挙げて父親の頭をポカ/\と殴つた。
「仙二郎は赤ン坊の時分から阿父ツさん子だつたから無理もないさ、この位のうちは誰も皆なおなじでね。」と祖母が云つた。私は強く自尊心を傷けられて独りでムツとした。
 そこ/\に飯を終ると仙二郎は玄関へ飛び降りてハダシ足袋をはいた。
「サア! 信ちやん行くベエ、お前エは服を着て行かねエのか?」
 仙二郎は柿色の水兵服を着てゐた。ズボンが長い為か、それとも身軽く装ふ為か、キユッとたくしあげて上着をその中におし入れた上から太い縮緬のさんじやくを締めてゐた。後から見ると臀の格好がはつきり解つた。
「僕は未だ飯を食べないから行かないよ。」と私は答へた。私は普段大概自分のことを「俺、俺」とよんでゐるにも係はらず「僕」と云つた。
「飯なんていゝやな。俺がまんじゆうやなんかを持つてゐるからあツちへ行つて一処に喰ふベエよ。」仙二郎はさう云ふと、大日本軍艦三笠といふ金文字が並んでゐる黒いリボンを巻いた水兵帽を無造作に頭へのせた。
 祖母と母はたゞならぬ気色で私を叱つた。私は自分の肚を見透されたのぢやないかしらと思つて酷く怖れた。で私は仕方がなく着物を着換へさせられて了つた。私は明らさまに怒ることも出来なかつたもので、こんな帽子ぢや嫌だとか草履が汚いから他所行の雪駄を出して呉れ、などと云つて、その通りにさせた。
「信ちやん何処へ行くんだい、競馬へ行くのか。」往来で友達が声を掛けても、私は素知らぬ振りをしてスタ/\と歩いてゐた。
「うん、さうだよ、お前エ達も伴れて…

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