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著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「新潮 第三十八巻第六号(六月号)」新潮社、1923(大正12)年6月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-05-12 / 2014-09-16
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 彼は徳利を倒にして、細君の顔を見返つた。
「未だ!」周子はわざとらしく眼を丸くした。
「早く! それでもうお終ひだ。」特別な事情がある為に、それで余計に飲むのだ、と察しられたりしてはつらかつたので、彼は殊更に放胆らしく「馬鹿に今晩は寒いな。さつぱり暖まらないや。」と附け足した。だが事実はもう余程酔つてゐたので、嘘でもそんな言葉を吐いて見ると、心もそれに伴れて、もつと何か徒らなことでも云つて見たい気がした。だけど、母も周子も、手際よく顔付きだけはごまかしては居たが――それは一層彼にしては堪らない同情のされ方で、普段ならばもう大概母が断わる頃なのにも関はらず、
「全く今晩は寒い、ひよつとすると雪かも知れない。」などゝ云ひ乍ら母は酒の燗をした。
「もう今日で五日位ゐになるかしら、お父さん?」と周子は彼に云つた。彼と母ではこれ位ゐのことでも口には出せなかつた。
「さつきの電話の様子ぢや黒川さん達はゆうべお帰りになつたらしいぢやないか。」斯う答へただけで彼は、母に間が悪かつた。「それとも、また別の用でも出来たのかしら!」
「丁度五日目になる。」と云つて母は横を向いた。
 母も彼も、父か何をしてゐるか知つてゐた。だが二人の間では父を非難するには「仕事」にかこつけるより他はなかつた。「大損をしやアしないかしら。」とか「何処の男とも知らない人間などゝイヽ気になつてつき合つてゐて、後で欺されるんぢやないかしら。」などゝ云ふ言葉を用ひるのだつたが、時には彼ですら母が余り言葉を妙な処に避けてゐるのに擽つたくも思つた。「私の手前もはゞからず……余り口惜しいことだ。」一層斯う云つて了ふ方が正直で清々しやアしないかなどゝ思ふこともあつた。だが周子の云ひ方は、母や彼の顔をあかくさせることが多かつた。
「此頃忙しいことは確かだ。だけど斯う家をあけるのはよくない。」彼は、いかにも分別あり気にそんなことを云つた。
「あなただつて此間、日帰りだと云つて東京へ行つて五日も帰らなかつたぢやないの。」
「俺とはわけが違ふ。」と彼は苦々しく云つた。
「違はないわ。同じわけよ。」
「俺は、そんなこと……」彼は、母の前であることが堪らず、唇を噛んだ。「俺は……馬鹿ツ……」と彼は周子を睨めた。
 皆なが暫く黙つた時、彼は赫ツとして、
「親父の馬鹿ア!」と怒鳴つた。皆な驚いて彼の顔を視詰めた。「よしツ、俺がこれから迎ひに行く、お客様なんてあつたつて何だつて関ふもんか。」
「あなたのお迎ひは駄目!」母が云ふのだつたら未だしも彼は好かつたが、周子が「自分が一処になつて遊びたいもので、駄目/\/\。」と云つた。
「何てエ馬鹿だらう此奴は、……誰がそんな呑気な気でゐられる、ほんとに拳固だぞ。」と彼は無気になつて怒つたが、一寸周子の懸念が自分でも感ぜられた。
「あんなに酔つてゐる。」と周子は云つた。尤も彼は、母の前で斯…

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