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受験生の手記
じゅけんせいのしゅき
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「学生時代」 新潮文庫
1948(昭和23)年4月15日
入力者冬木立
校正者小林繁雄
公開 / 更新2011-11-19 / 2016-02-03
長さの目安約 90 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 汽笛ががらんとした構内に響き渡つた。私を乘せた列車は、まだ暗に包まれてゐる、午前三時の若松停車場を離れた。
「ぢや左樣なら。おまへも今年卒業なんだから、しつかり勉強しろよ。俺も今年こそはしつかりやるから。」
 私は見送りに來てゐた窓外の弟に、感動に滿ちて云つた。襟に五年の記號のついた、中學の制服を着けて、この頃めつきり大人びた弟は、壓搾した元氣を底に湛へたやうな顏付で、むつつり默つて頭を下げた。恐らくは、弟も、この腑甲斐のない兄の再度の首途に、何を云つていゝか解らなかつたのであらう。考へて見れば自分は、既に弟に追ひつかれてゐるのだ。上京の時日は弟より三ヶ月先きの今だが、弟もやがて中學の制服を脱ぎすてると、この四月には上京する身なのだ。私はもう一度妙な感慨を以て、ぢつと立つてゐる弟の姿を見やつた。
 私はもう一言何か弟に云ひたかつた。が汽車は既に、ゆつくりと、しかも凡ての物に係りなく、動き出してゐた。そして思はず涙の浮びかゝつた私の眼から、ぼんやり明け近い暈をかぶつた燈火と、蝙蝠のやうに驛員たちの立つてゐる歩廊が、見る/\中に後退つて行つた。
 弟の小さくなつた姿が、もう歩き出してゐた。そして此方を見てゐないらしかつた。それでも私はもう一瞥の別れを投げかけようとしたが、その時暗い物影が、恐らくは積まれた材木ででもあるらしい物影が、私と歩廊との間を遮つた。而して再びその暗が豁けた時、汽車は既に故郷の殘影である燈火の群から遠く駛つてゐた。
 私はやうやく窓から首を引込めた。そして何となく首途らしい感慨に打たれて、危ふく熱くなりかゝつた瞼を抑へながら、かうなる迄の自分の位置を默想し始めた。――
 私に取つては、今度のそれは全く決死の首途なのだ。去年の一高の受驗に於ける不面目な失敗、その後を受けた今年こそは、どうしても成功しなくてはならぬ首途なのだ。それにしても何故、去年もつとしつかりやらなかつたらう。それは第一に上京が遲れたからだ。秀才だつた義兄の言に信頼し過ぎて、卒業後の大切な數月を刺戟のない田舍で勉強しようとしたのが間違だつた。早くから上京してゐて、切迫した空氣の中にゐたら、或ひは勉強ももつと緊張し、又受驗術も巧妙になつてゐたかも知れない。從つて友人の三島のやうに、或ひは及第してゐたかも知れない。なあに三島だつて自分だつて、腦力にさう軒輊が在る譯はないのだ。無いどころか、自分の方が卒業の成績さへよかつたのだ。そして受驗前の問答なぞでも、自分の方がずつと知つてゐたのだ。ところが受驗の結果は彼が見事に入つてゐながら、私はすつかり失敗してゐた。一體ほんとに彼と私とに、どこであの差が出來たのだらう。
 それは彼と僕との單なる英語の單語一つ知る知らぬから生じたらしい。少くとも自分はさう考へる。あの英語の第一問にあつた、呪ふべき Promotion といふ單語の譯し…

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