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ある完全犯罪人の手記
あるかんぜんはんざいにんのしゅき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「酒井嘉七探偵小説選 〔論創ミステリ叢書34〕」 論創社
2008(平成20)年4月30日
初出「黄色の部屋 第四巻三号」1952(昭和27)年12月10日
入力者酒井 喬
校正者北村タマ子
公開 / 更新2013-07-10 / 2014-09-16
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

○月 ○日

 私はいつものように、まだ川の面や町全体に深い靄のかかっているうちに朝の散歩を急いだ。人に顔を見られることを、これほど嫌うようになったのも、精神的な病気が昂進しているためであろう。平静に思索することが可能なのは、このミルクの海を泳いでいるような、深い靄の中の散策をつづけている十数分数十分のうちに過ぎない。それとても、突然として白い幕の中から現われる思いがけない人の姿によって破られてしまうことが多い。
 自分が好きこのんで住んでいるとはいえ、あの、かつては座敷牢であったことに疑いのない、倉の二階にいる間は、(現在もう肉体の病苦からは逃れているものの)何故か、頭の中の歯車の一つがたえず不規則に動き廻り、私を狂わせずにはおかないと、猛威をふるう。
 今朝いつもよりは少し早く、微風にのって静かに流れて行く靄の潮流に流されながら、平静な楽しい散歩をつづけていた。と古い石橋を渡った散髪屋の角で、出合いがしらに誰かとぶ付かりそうになった。何時ものように、私は面をさげて対手に道をゆずった。すると向うもまた私の避けた方へ歩を移す。自分は立ち止った。すると先の男も立ち止る。その動作に何かしらわざとらしさを感じた。思わず見上げると、自分を見下してゐる相手の険しい目と視線が合った。自分は思わず、あッと低く叫んだ。

○月 ○日

 私が病魔に屈して幾度か死を選んだ時、病魔の陰から顔を出し、満足げに嘲笑った男、その男こそ私が数日前、靄の中の散策に町角で出逢った人物である。
 私は前にも記したように、朝の散歩の時間において、もっとも平静に思考しうる。言葉をかえて云えば、精神的にもっとも平静である。従ってあの時に逢った男、現実の人物か、または、私が白いスクリーンの上に見たかも知れない幻影であろうか、という自分自身の疑問に対しても判然たる解答を与えることが出来る。
 ――幻影ではない。確実に現在、地上に生をうけている人間である。しかしもし、あれが幻影でないとすれば、赤沢荘三郎がこの世に再現したことになる。――完全な液体となり、粉末と化して暗渠に流された人間が、二十年の歳月を経て、再び地上に現出する。――こうした超自然的なことを誰が信ずるであらう。事実、科学者として、そうしたことを信ずる最后の人間で私はあらねばならない。

○月 ○日

 完全犯罪という言葉がある。発覚されないように完全に遂行された犯罪という意味である。しかし自分ははたして完全犯罪が可能であるかどうかを疑う。殺人の場合を考えると、「殺害の時間」、「被害者のアゴニー」、「死体処理」の長いシーンの一場面、一場面が完全に犯人の脳裡に焼付けられる。これは永久に消滅することなく、犯人の希望せざる記憶として、彼の頭脳のどの部分かに密かに爬行し、絶対に消ゆることがない。そして、もっとも強靭な神経の所有者に対しても時を得ればそ…

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