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稚子ヶ淵
ちごがふち
作品ID53154
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」 ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年8月10日
初出「早稲田學報」1906(明治39)年3月号
入力者門田裕志
校正者坂本真一
公開 / 更新2016-08-13 / 2016-06-10
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 もう春もいつしか過ぎて夏の初めとなって、木々の青葉がそよそよと吹く風に揺れて、何とのう恍惚とする日である。人里を離れて独りで柴を刈っていると、二郎は体中汗ばんで来た。少し休もうと思って、林から脱け出て四辺を見廻すとすぐ目の下に大きな池がある。二郎は何の気なしにその池の畔へ出た。
 すると青々とした水の面がぎらぎらする日の光りに照て一本の大きな合歓の木が池の上に垂れかかっていた。
「この池の名は何というだろう?」
 二郎はその合歓の木蔭に来て鎌や、鉈を投り出して、芝生の上に横になって何を考うるともなく熟と池の上を見下している。爽やかな風がそよそよと池を渡って合歓の木の葉が揺れると寂然としている池の彼岸で鶺鴒が鳴いている。うす緑色の木の葉も見えれば、真蒼な常盤木の色も見えている……しかし人影は見えなくて静かな初夏の真昼である。
 二郎は種々な空想を浮べていた……合歓の木の下に繁ている蔦葛の裡で、虫が鳴いている。二郎は虫の音に暫時聞とれていたが、思わず立上って蔦葛の裡をそっと覗き込んで見たが、姿は見えなかった。またもとの芝生の上に横わって池の方を見ていると又虫の音が聞こえてくる……若し捕まえたら、彼の竹籠の中へ入れて、籠の中へ草を入れて、霧を吹いて、庭の南天の枝に掛けて置こう。そうするときっとこのように好い声を出して泣くだろう……。されど身動きもせんで、熟と眸を青葉の上に落して、滅入るような日の光りを見つめていた。
 すると池の上で先刻がたの鶺鴒が一声啼いて向うの岸に飛んで行くのである。二郎は、その鶺鴒の下りた林の方に目を移して又考え込んでしまう。
「ああ、姉さんは死んでしまったのか。」
と、この時遽かに独言のように溜息を吐いて目から涙が溢れる。しかし誰れも見ているのでないから、落つるままにしておくと、涙が頬を伝うてぽたぽたと膝の上に落ちた。
 この時、何を思い立ったか、二郎は仰いで合歓の木を見上げたのである。
「大きな合歓の木だな、幾百年経ったろう……早く花が咲けば好いが、花が咲く時分になると村のお祭が何時でもあるんだ……しかし姉さんがいないから、寂しくてならん……盆になると姉さんは踊ったっけ……姉さんを村の者は美しいと言う。その噂を聞くと姉さんはいつも赤い顔をしたっけ……。ああ、つまらんつまらん姉さんは死んでしまったんだ。」
 思い出すともなく、いつしか姉のことを思い出して二郎は泣いたり、又何か思うて笑ったりしているのである。
 白いすき透るような雲が、ふわふわと高く飛んで池の上を渡ると影が水の上に映って、赫々と照っていた日の光りが少し蔭ると、天地が仄りと暗くなって、何処ともなく冷たい、香ばしい風が吹いて来る。何だか寂しいような、うら悲しいような気持になった。すると又不思議なことには、それはそれは……今迄聞いたことのない、美妙の音楽の音が響いて来て、初めは何…

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