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抜髪
ぬけがみ
作品ID53159
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」 ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年8月10日
初出「読売新聞」1909(明治42)年6月6日号
入力者門田裕志
校正者坂本真一
公開 / 更新2015-11-16 / 2015-09-01
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ブリキ屋根の上に、糠のような雨が降っている。五月の緑は暗く丘に浮き出て、西と東の空を、くっきりと遮った。ブリキ屋根は黒く塗ってある。家の壁板も黒い。まだ新しいけれど粗末な家であった。家の傍には、幹ばかりの青桐が二本立ている。若葉が、びらびらと湿っぽい風に揺れている。井戸がその下にあって、汲手もなく淋しい。やはり雨が降っている。この家には若い女が一人で住んでいるのだ。
 私は、この若い女を見たことがない。暮春であるけれど、寒い日であった。私は、窓から頭を出して、黒い家を見た。ひょろひょろとした青桐が、木のように見えぬ。人の立っているようだ。此方向の黒い壁板には一つも窓がなかった。彼方には窓があるかも知れない。私は、まだその家を廻って見たことがない。ただ、若い女が住んでいるということを聞いた。
「女は、どうしているだろう。」と思った。女は、琴を弾かない。また歌わない。いつもあの黒い家には音がなかった。私は、どうかして、井戸に水を汲みに出る姿でも見たいと思ったが、ついその女の姿を見たことがない。
 私は心で、いろいろその女を想像して見た。或時は、痩せた青い顔の女だと思った。或時は、もう寡婦で艶気のない、頭髪の薄い、神経質な女だと思った。私は、女のことを考えているうちに、日が暮れた。
 やはり雨が降っている。こう幾日もつづいて降ったら皆な物が腐れてしまうだろう。
「そうだ。皆な物が腐れてしまったら……。」と思った。
 黒い夜だ。腐れて毒と化たような夜だ。暗い色は漠としているだけだ。黒い色には底に力がある。私は暗い夜でない黒い夜だと思った。私は、深い穴を覗くような気がした。冷たな舌でなめるように風が当る。もう黒い家は分らぬ。あるけれど分らぬ。私は不安であった。けれどやはり私は窓から頭を出していた。
 明る日も雨だ。私の空想はもはや疲れた。朝から、青桐に来て烏が止っている。茫然と窓に凭れて、張り付けたような空を見ていると、烏が、時々頭を傾げて何物かに瞳を凝している。私は、手を上げて逐うのも物憂かった。自然に逃げて行くのを待ていると、烏は昵として動かなかった。
 私は、窓を閉めた。急に室の中が暗く陰気となった。暫くして、また窓を開けて見ると、まだ烏が青桐に止っていた。……とうとう日が暮れてしまう。
 或晩ふと眼を醒すと、窓の障子が明るかった。戸を開けて見ると、雲が晴れて、空は暗碧だ。古沼に浮いた鏡のように青い月が出た。銀光が戦き戦き泳いで来る。幾万里の間音が亡びて空は薄青い沈黙である。二本の青桐も目醒たように立っている。黒い家もその儘だ。ただ湿れたブリキ屋根に青い光が落ちて、東、西の黒い森にも青みを帯んだ光りは流れていた。
 私は暫らく、窓に凭って青い月の光りを受けた黒い家を見ていたが、いうにいわれぬ悲しさがシミジミと胸に湧いた。
「若い女! まだ見ぬ若い女!」ああ、そ…

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