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後の日の童子
のちのひのどうじ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子」 ちくま文庫、筑摩書房
2008(平成20)年9月10日
初出「女性」1923(大正12)年2月号
入力者門田裕志
校正者岡村和彦
公開 / 更新2013-10-21 / 2014-09-16
長さの目安約 32 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 夕方になると、一人の童子が門の前の、表札の剥げ落ちた文字を読み上げていた。植込みを隔てて、そのくろぐろした小さい影のある姿が、まだ光を出さぬ電燈の下に、裾すぼがりの悄然とした陰影を曳いていた。
 童子は、いつも紅い塗のある笛を手に携えていた。しかしそれを曾て吹いたことすらなかった。
 植込みのつたの絡んだ古い格子戸の前へ出て、この家のあるじである笏梧朗は、そういう童子のたずねてくる夕刻時を待ち慕うていた。青鷺の立ち迷う沼沢の多かったむかしにくらべ、この城外には、甍を立てた建物が混み合っていた。
「きょうは大層おそかったではないか、どうしてからだを震わせているのか、犬にでも会ったのか。」
「いいえ、お父さん。」
 童子は、頭をふって見せた。柔らかい唐黍のような紅毛が、微風に立ちそよいだ。
「いつもお父さんのおうちのそばへ来ると、妙にからだがふるえるのです。べつに何んでもない。」
「それならいいけれどね。また加減をわるくするといけないから。」
 笏梧朗は父親らしい手つきで、童子の、絹のような頬に掌をあてた。
「お母様は?」
 童子は、そういうと家の中をさし覗いた。ココア色をした小鳥が離亭の柱に、その朱塗の籠のなかで往き来し、かげは日影のひいたあたりには既う無かった。
「ほら、離亭で朱子を縫うている。見えるかな、鳥籠のある竹縁のそばにいるではないか。」
「ええ、呼ぼうか知ら。」
「それよりもそっと行って驚かしてみせたらどうだ。」
 童子は、すばやく玄関から次ぎの部屋をぬけ、離亭への踏石へおり立とうとしたとき、一軸の仏画が床の間に掛けられてあるのを見戍った。
「どうしてああいうものを掛けておくの。あの絵は見たことがある……。」
「あれはね。」
 笏は、悲しそうに童子と仏軸とを見較べ、躊躇ってやっと重い口をひらいた。
「あれは、おとうさんが妙に寂しくなると掛けてみたくなるものだ。お前があれを見ることが厭なら止めてもよいが……。」
「でも、へんですね。」
 古い軸の上に、細い目をしたふっくりした顔があった。蓮華を台に、古い、さびしい仏は坐っていた。が、その感じは、月夜のように蒼茫とした明るみを持っていた。
 童子は、庭石の上に降り立った。まわりを青篠でめぐらした離亭で、朱子を縫う針のきしみが厚い布地であるためか、竹皮を摩するような音を立てていた。童子は、母親の、白い襟足と瘠せた肩とを目に入れ、そして可懐しそうに心をあせったためか、竹縁にぎしりと音を噛ませた。
「お母様。」
 童子の手は、母親の胸もとへ十字にむすびついた。うしろから突然そうされたので、母親は驚いた目をしばらく静まらせ、間もなく嬉しそうに輝かせた。
「まあ、おまえどうして来たの。」
 母親は、そう言うたときに父親が佇っている窓口を見た。ふたりは微笑いあったが、どの微笑いも満足そうな色を漂わしていた。…

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