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淡窓先生の教育
たんそうせんせいのきょういく |
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作品ID | 53220 |
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著者 | 中谷 宇吉郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中谷宇吉郎随筆集」 岩波文庫、岩波書店 1988(昭和63)年9月16日 |
初出 | 「西日本新聞」1955(昭和30)年7月21日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 川山隆 |
公開 / 更新 | 2013-04-08 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
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先日、日田へ行く機会があったので、広瀬淡窓先生の旧屋、秋風庵を訪ねた。
広瀬淡窓の名前は、前から聞いていたが、機会がなくて、今までその人となりや教育方針のことなどは何も知らなかった。それで庵主古川老のお話は、非常に興味が深く、また大いに啓発されるところがあった。
門弟四千名、その中からは、高野長英、大村益次郎、清浦奎吾というような人々が出ていることも、もちろん特筆すべきであるが、それよりも驚くべきは、四千名というその数である。これらの門弟たちは、全国六十余州から笈を負って集ったもので、全然門弟の来なかった藩は、たしかに二つくらいしかない。青森地方、即ち南部や津軽からも、はるかに九州のこの僻地まで、数名の門弟が来ている。
幕末時代の交通機関のことを思えば、これはまことに驚くべき事実である。淡窓塾で、所定の学業を終えれば、学位がもらえて、それであと一生就職には困らない、というようなことももちろんなかったであろう。藩か大店かの「公費」で遊学したという学生も、絶無に近かったものと思われる。
門下生たちは、純粋に学問を身につけるために、千里を遠しとせず、九州日田の山地にまで集って来たのである。今日もし肩書や就職を全然度外視して、四千人はおろか、四十人の門下生でも集め得る教育者があったら、それは一つの奇蹟であろう。
ところで淡窓先生が、これら四千人の門下生に、どういう教育を施したかというに、今日のような技能的な教課を教えることは、もちろん出来なかった。遺された教育課程の中には、やや専門的な課目の名前もまじっているが、淡窓先生の真面目は漢詩人であって、その教育の大本は、敬天を主眼とした人間教育であった。
近年復古調になった日本では、アメリカの六三制を輸入したため、日本の教育は崩れた、淡窓流の人間教育も必要だ、という風なことをいう人もある。しかしそれはアメリカの六三制の実態を知らない人の言である。アメリカでは、六三制の最初の二つ、即ち義務教育であるところの小学校及び中学校では、教育の主眼は、人間教育におかれている。学問は大切なものではあるが、国家が義務として国民に負わすべきものではないという理念のもとに、義務教育では、主として道徳教育が施されている。そして初めの六三で、人間教育を一応すませたところで、高等および大学教育で、学問を教えようという考えである。巧く行っていないところもあろうが、それを理念としていることは確かである。淡窓先生の教育方針が、一番よく守られているところ、あるいは望まれているところは、今日のアメリカかもしれない。
(昭和三十年七月二十一日)