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陶古の女人
とうこのにょにん
作品ID53499
著者室生 犀星
文字遣い新字新仮名
底本 「蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ」 講談社文芸文庫、講談社
1993(平成5)年5月10日
初出「群像」1956(昭和31)年10月
入力者日根敏晶
校正者江村秀之
公開 / 更新2018-02-25 / 2019-11-24
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 きょうも鬱々としてまた愉しく、何度も置きかえ、置く場所をえらび、光線の来るところに誘われて運び、或いはどうしても一個の形態でさだまらない場合、二つあてを捉え、二つの壺が相伴われて置かれると、二つともに迫力を失うので、また別々に引き放して飾って見たりした、何の事はない相当重みのある陶器をけさからずっと動かしつづめにいた。かれらは最後に三つあてに据えられ、それを四個に集めてながめることは出来なかった。四という数がいかに面白くない数であるかが判る、三という数の平均美が保たれると、彼はそこに同じ背丈の壺に釣合を見て、据えた。各陶の惹きあう美と形とは、肩をくみあわせて、うたがうがごときものがあった。なるべく壺というものは一つあてに飾装せられるべきであり、それが本来のものだが、彼はつねにそれらを一どきに眼におさめたかった。慾張りで執念ぶかいのである。それでいて漫然と棚とか物の上とかに飾って置くことを好まない、どこまでも生かせられるものなら生かして、或る場所とか、その場所のまわりの融和とかに注意して、壺を置いて見るのに邪魔な物があると、それを即座に外してしまう、額の絵までが故障を来たすときには、額も外してしまう、何にもないところにいたがる物は、何にもないところに据えてやらねばならない、壺自身もどこまで行っても行き着くまでは坐らないのである。厭だ厭だといって頭を振るのである。たとえ、そこに坐るにしても歪みを持った陶器は、その歪みを香台にたくみな挟み物をしてやり、すっきりと肩先をのべさせなければならない、かれら古陶の類は多少まがりとか、ゆがみを昔から持たされている。それはそのままでいい訳のものだが、飾るときにはただしく置かれることを好いている、ただしいということは陶器の素性であって、ゆがめられていることは過ちであった。その過ちを彼はたくみに蔽い、いたわってただしくしてやるのである。だから彼はラシァ切れのようなものを沢山に持っていて、挟み物をして姿をととのえてやるのだ、彼は対手が陶器でありながらそれ以上の物に釣り上げて考えてやっている。どんな陶器でも洗いすすぐという事は怠らない、指紋とか手ずれとかはそれを買った時に、洗い落して生地を清めてから眺めるのである。
 眼をさましてすぐ眺めるもの、夜の最後に眼におさめてねむるものも、悉く壺であった。寝部屋の枕もとにそのために置かれている壺類は、色のあるものが多かった。天啓赤絵とか柿右衛門の作品とかに雑り、高麗青磁や李朝の白磁がやさしく、あわいみどりの乳白の面を互に相いだきながら、明け方にはいちはやく、明りをたぐりよせて、形を見せはじめていた、その一日という日の明けがたの美しさ、ただ、それを見ているだけで、一人の人間のいのちがきょうも保たれていることで、その人のよろこびは一概にばかばかしい事には思えない、それは冬も夏もたいてい五時半とい…

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