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南京虫日記
なんきんむしにっき
作品ID53506
著者斎藤 茂吉
文字遣い新字旧仮名
底本 「斎藤茂吉選集 第九巻 随筆」 岩波書店
1981(昭和56)2月27日
初出「改造」1929(昭和4)年10月
入力者しだひろし
校正者門田裕志
公開 / 更新2012-05-20 / 2014-09-16
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 西暦一九二三年八月十三日、Rothmund 街八番地に貸間があるといふので日本媼の息子が案内してくれた。そこの女主は Pr[#挿絵]rtzl といつて、切りに訛のある言葉を使つた。左の方の顔面神経麻痺があるから笑ふたびに顔が右の方に歪んだ。部屋は古くて余り清潔ではないが、裏に面して一間、往来に面して一間ある。今は塞がつてゐるけれど、四五日経てばどれかが明くといふことである。かへり途で、日本媼の息子は、『民顕人は何でも真直に物いふから喧嘩してはいけませんよ』などと云つた。これが候補になつた第一の部屋である。
 八月十四日。火曜。教室で為事をしてゐる独逸人の医学士が下宿してゐる家に一つ部屋があるから、若し借りる意志があるなら世話しようといふことであつた。家は Lindwurm 街の二十五番地四階で、女あるじの名を Maistre と云つた。部屋は小さいが我慢が出来る、ただ毎日四階まで昇降することは如何にも大儀だから、第一の部屋が借りられるならばその方にしようと思ひ、明瞭な返詞を与へずに帰つて来た。これが候補になつた第二の部屋である。
 八月十八日。土曜。朝食まへに、第二の部屋は、四階だから不便だといふので断りに行つた。それから、朝食を済まして、Landwehr 街三十二番地Cに一間、Sonnen 街二十八番地に一間あるが、いづれも一週間ぐらゐ経たねば明かなかつた。これが候補になつた第三第四の部屋である。
 八月二十日。月曜。午前も午後も教室で為事し、夕景に第一候補の家を訪ねた。上さんは顔が歪んで醜いが、率直でいいところがあるらしい。私は部屋を借りようと思ふ。そこで、いくら支払ふかと問うた。上さんは熟慮する暇もないほど速かに、毎日、丸麺麭三つの代価だけ支払つて呉れないかと云つた。いま時、小さい丸麺麭一つの価は一万五千麻克である。私は大体好からうと答へた。上さんいふ。『どうか貧しい寡婦のためになるべく余計に払つてください』それから、またいふ。『ドクトルは麦酒一杯二十五万麻克するといふことを御存じでせうねえ。噫、麦酒が飲みたいですねえ』云々。それから、上さんは靴下の繕ひを自慢して見せ、他所行の著物を持つて来て見せ、次いで一足の靴を持つて来て見せ、墺太利の Salzburg 製だと云つた。その靴を切りに自慢し、めつたに穿かないといふことをも云つた。四十を越した寡婦の上さんは、その靴を大切にして飾つてゐるのであつた。
 八月二十一日。火曜。午前は教室で為事し、午食後日本媼の所に置いてあつた荷物を全部 Rothmund 街の第一候補の家に運び、ミユンヘンに来て初めて自分の部屋に落付いたやうな気がしたので、午後も教室での為事がなかなか捗つた。夕景に新しい家に立寄り上さんから鍵を貰ひ、友と夕食をしに行つた。心がおのづと開いて、麦酒が咽喉を通過して行く工合が何とも云へない。九時…

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