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芸術と国民性
げいじゅつとこくみんせい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「津田左右吉歴史論集」 岩波文庫、岩波書店
2006(平成18)年8月17日
初出「みづゑ 一二六」1915(大正4)年8月
入力者坂本真一
校正者門田裕志
公開 / 更新2012-01-12 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 芸術史家、または芸術の批評家が或る個人の作品を観てそこにその作家の属している国民全体の趣味なりまたは物の見かたなり現わし方なりの或る傾向が見えるというのは尤な話である。しかし芸術家が製作をするに当って「おれは日本人だから日本人の趣味を現わすのだ」というようなことを意識してかかるものがあるならば、それは飛んでもない見当ちがいの話である。芸術家が製作するに臨んでは渾身ただ燃ゆるが如き製作欲があるばかりである。はちきれんばかりに充実している或るものが内にあって、ただそれに形を与えて外に現わそうとすることに向ってのみ全意識が集中せられねばならぬ。出来上がった作品をとおして外部から見ればそこに日本人らしい何物かがあるかも知れぬ。けれどもそれは作家の関知するところではない。作家はただ自己の現わそうとするところを現わすのみである。あるいはまた作家がその国の古芸術を研究してその間から何らかの暗示を得、または一種のインスピレエションを得ることもあろう。そうしてその作家の作品にはおのずからその国の古代芸術の面影が現われ、あるいは一道の霊光が両者の間に相感通するというようなこともあろう。しかし、そんな詮索は批評家のすることである。作家はただ自己の求めて未だ得ざるところ、現わさんとして未だ現わし得ざるところを古芸術において暗示せられたまでである。言を換えていうと自分と古芸術とが偶々何処かにおいて一つの契合点を得たのである。あるいは古芸術において自分の反映を認めたのである。そうしてこの場合においても一度び製作に臨んではその古芸術は全然意識の外に消えてしまわねばならぬ。
 製作の材料を撰ぶのも同様である。例えば画家が水彩画を作る。それはその画家のその時に現わそうとすることが油絵よりもパステルよりもその他のものよりも水彩を以て現わすことが最も適切だと感ずるからである。もし日本人の趣味には水彩画が調和するというようなことを智力の上で判断して、それだから水彩を取るのだというような考があったならば、それは画家として最も不忠実なものである。もしくは画家たる資格のないものである。水彩画家はそんな外部的事情のために水彩画を作るのではなかろう。水彩画の生命はもっと奥深いところにあるはずである。あるいはまた彫刻家が日本人の趣味には木彫が合うというようなことを決めて置いて、それがために大理石よりも木を撰ぶというようなことがあるならば、それもまた同様の誤謬である。大理石に適せず、青銅に適せず、木によって始めて適切に表現せられるものであればこそ木を選ぶべきである。製作に当っては自分の現わそうと思うものに最も適切な形を与えようとする外、毫末も顧慮するところがあってはならぬということはいうまでもあるまい。
 以上は芸術家の心理からいったのであるが、もし文化史上の事実からいうならば芸術の上にも国民性というものはあ…

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