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日本に於ける支那学の使命
にほんにおけるしながくのしめい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「津田左右吉歴史論集」 岩波書店
2006(平成18)年8月17日
初出「中央公論 六一八」1939(昭和14)年3月
入力者門田裕志
校正者フクポー
公開 / 更新2017-10-03 / 2017-09-24
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 こんどの支那事変が起ってからたれしも深く感ずることは、支那についての日本人の知識があまりにも足りなさすぎるということであろう。日本人が支那についての研究をあまりにも怠っていたということであろう。支那文字をつかうことがあまりにも好きであり、支那を含む意味で東洋ということを何につけてもいいたがる日本人が、その支那についての知識をあまりにも有たなさすぎることが、こんどの事変によってよく知られたのではあるまいか。あるいはこれから後もますますよく知られてゆくのではあるまいか。しかし時局について語ることは、わたくしの職分を超えている。わたくしはただ、こういう状態には学問としての支那の研究、即ち支那学、が日本においてまだ十分に発達していないところにも理由があるということを述べ、そうしてそれと共に、支那学は単に目前の実際問題を解決するについて必要な知識を提供する責任があるにとどまらず、学術そのものとして大なる使命を有っていることを説きたいと思うのみである。
 ここに支那学というのは支那を研究する学術ということであるが、自然科学に属するものはそれに含ませない方がよかろうから、支那の文化を研究する学術と限定していうべきであろう。これまで日本にも支那に関する学問はあったので、それが漢学ともいわれていた。あるいは今もなおそれがあるといってもよかろう。漢というのは支那のことであるから、漢学という名はことばの上では支那学というのと同じであるが、われわれが今、漢学の名をすてて、ことさらに支那学という称呼を用いるには、理由がある。漢学は現代の学術の意義で支那を研究するのではなくして、支那のことを支那から学ぶのである。そうしてその学ぶことは、主として支那の文字とそれによって書かれた支那の古典とであって、思想的意義においてはその中心が儒学にある。一くちにいうと、漢学は儒学の一名であり漢学者は儒者であったといってもよいほどだからである。儒教の外の支那の思想を知ること、支那の古典的詩文をまねて作ることがそれに伴ってもいたが、よしそれにしても、支那の書物に記されていることを学び知り、すべてにおいてそれを手本としようとしたのが、いわゆる漢学である。さて、こういう儒学としての漢学を思想的側面から見ると、それが現代的の学術でないのは、教としての儒教を説くためのものだからである。儒教は教であるから完全なものとせられ、従ってそれに対しては批判が許されぬ。研究ということも教そのものを批判しない程度において許されるに過ぎないから、それは書物や文字の解釈などの末節においてのみ行われる。また教というものには必然的に伝統の権威と宗派的偏執とが伴い、その点からも自由な研究が妨げられる。あるいはまた儒教の歴史的発展を考えることが好まれず、儒教ならぬ思想のそれに入りこんでいることを認めたがらないのも、儒教は初から完全なもの…

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