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仏教史家に一言す
ぶっきょうしかにいちげんす
作品ID53740
著者小竹 主 / 津田 左右吉
文字遣い新字旧仮名
底本 「津田左右吉歴史論集」 岩波文庫、岩波書店
2006(平成18)年8月17日
初出「密厳教報 一六六」1896(明治29)年8月
入力者坂本真一
校正者小林繁雄
公開 / 更新2012-01-12 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 歴史家に要する資格のさまざまあるが中に、公平といふことがその重要なるものの一なるは争ふべからず。公平とは読んで字の如く一見甚だ明かなるが如くなれど、細かに考ふれば真に公平を保つは容易のことに非ず。公平とは私偏を挟まぬこと、即ち事実を観察するに予め成見を抱かず、議論をなすに故意の造作を為さざること等にして、これらは史家の心掛け次第にて、随分避くるを得べしとす。されど人々の偏見は故意ならぬ所にも甚だ多し。単に人の性質の上より見むも、君子の胸臆は小人の忖度する能はざる所、英雄の心事また凡人の測知し難き分ならずや。理窟をいはば如何様にもいはるるものにして、人の意見とか議論とかいふもの、表面はいかめしき理論や証拠やの物具もて固めをるといへども、その裏面を探れば、極々の奥底は概してその人の性質・経験等より出でたる偏狭なる、自家一箇の感情に過ぎず。而もかくの如きは人の多く自覚せざる所、いはゆる知らず識らずの間にかくなりゆくものにして、自らはつゆばかりも私情を挟まざる公明なる理論をなすと確信しをるなり。あるいは智識と感情とは往々衝突するものにして、理窟は右なりと思へど感情の為に左せらるること多しといふものあり。かかる場合もなきにあらねど、概していはば、智識と感情とはかく明かに分ち得べきものに非ずして、寧ろ両者の知らず識らず一致しをるを常なりとすべし。さらに人々の境遇・経験の異なれる割合には、その議論の存外に同じきやうに見ゆるは、その根本たる人情の一般に相通じをるが故といふべからむか。われらが日常、他人の言ふ所、為す所を見て、何故にかく人々の思慮に差異ありやと驚かれ、我が思ふこと、述ぶることの他人に通ぜざるに逢ひては、如何なればかく人のこころは同じからざるかと怪しまるるは、所詮その感情の甚だしく懸隔せるが故に外ならず。此の如きは政治上の議論にも、社交上の談話にも常にあることなるが、宗教家といふものに至りては殊に甚だしとす。宗教家の理窟は理窟として当てにならぬもの甚だ多く、之に向つて公平を求むるは寧ろ誤れるに非ざるかの観ありとす。
 されどかくいふは故意ならぬ、即ち知らず識らずして陥れる偏頗に対するものにして、多少これを恕せむとするもまた已むを得ざるに出づといへども、もし為にする所ありて、故らに偏私の言をなすものあらば、われらは断じて之を詰責せざるを得ず。殊に公平を第一義とする史学に喙を容るるものに在りては、この点において最も厳格ならむことを要す。今の仏教史を口にするもの、よく此の如きなきを必し得るか。われらはいま一々世上の史論を捉へ来りて之を議するの遑なしといへども、概していはば、今の仏教史家と称するものが、故意の偏私をその間に挟まんとする傾向あるは、ここに断言を憚らざる所なりとす。いはゆる「誤魔化し」の手段は今の史家においてわれらが往々認むるところなり。
 思ふに我が邦の…

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