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炉辺
ろへん
作品ID53883
著者堀 辰雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆73 火」 作品社
1988(昭和63)年11月25日
入力者川山隆
校正者染川隆俊
公開 / 更新2012-12-07 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 数年まへの春、木曾へ旅したときのこと。落ちつく先は、奈良井にしようか、藪原にしようか、とちよつと気迷つたのち、――まづ、鳥居峠を越えて、藪原までいつてみた。いい旅籠でもあつたら、とおもひながら、お六櫛などをひさいでゐる老舗などのある、古い家並みの間をいいかげん歩いて、殆どもうその宿を出はづれようとしたとき、一軒、それを見るなり矢張あつたな、とおもつたやうな、昔なつかしい家作りの、小さな旅籠があつた。
 其の夜の泊りは其処にきめて、ともかくも、その宿のはづれまでいつてみた。すぐもうその先きは鳥居峠にさしかかるらしい、その宿はづれには、一本の大きな梨の木が立つてゐた。その花ざかりの木を前景にして、そこから見下ろされるまだ春浅い谷間を、私はいかにも此処まで来たかひのあつたやうな気がしながら、しばらく眺めてゐた……。
 夜、うすぐらい炉辺で、その宿の娘が串にさした川魚を焼いてゐた。その傍へいつて、私もその炉の火にあたらして貰つた。その魚の名を聞いてみたが、なんだか覚えにくい名で、私はすぐ忘れた。もつとも、つまらない魚です、と娘も云ふには云つてゐたが……。そのかはり、秋、鶫のとれる時分に是非いらしつて下さい。その時分には、よく東京のお方がお見えになります、といふ。
「ものなど書く人もたまには来ますか?」と私はきいてみた。
「はい、いろんなお方が……」娘はいたつて口数が少ない。そこで私はもう一度きく。
「どんな人?」娘はちよつと考へてゐたが、まづ一番さきに、「津村信夫さん……」といつた。
 私はおもはずにつこりとした。――実はさつきから、私も、こんな話を宿の人たちと交はしながら、こんな煤ぼけた炉のまへに胡坐をかいてゐるのは、自分なんぞではなくて、津村信夫だつたらさぞ似合ふだらうに、と思ひ描いてゐたところだつたのだ。……



 去年の秋のはじめ、戸隠へゆく途中、私のところに立ちよつていつてくれた津村信夫と、わかれぎはに約束した。
「こんどはきつと往くからね。十日ごろまではゐるの?」
「是非いらしつて下さい。戸隠もこれからはいいですよ」
 さういつてわかれたときの津村君は、いまからおもふと、もう大ぶ容態が悪かつたらしく、ひどい痩せかたで、顔いろも妙に黒ずんでゐた。しかし、旅さきのせゐか、なかなか元気さうなので、大したことはないのだらうと思ひ込まされてゐた。……
 九月のなかば、約束の日限を二三日過ぎてから、蕎麦の花ざかりのなかを、三人ほどして戸隠に上つていつた。運悪しくその前日、津村君は山を下りたあとだつた。
 夕方、その坊のある中社の部落や、津村君が毎日散歩にいつてゐたといふ、高妻山を前にした、小ぢんまりした高原などを小一時間ほど歩いてみたが、どこへいつても、津村君のゐないのがひどく物淋しかつた。
 夜、坊の主人に招かれて、七八人も坐れさうな炉辺で、お茶を馳走…

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