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古江
ふるえ
作品ID53884
著者高浜 虚子
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆33 水」 作品社
1985(昭和60)年7月25日
入力者川山隆
校正者斎藤漁火
公開 / 更新2012-11-14 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



一人の女が鍋を洗つて居る。其れは石崖の裾から半身を現はしたのである。其の鍋を洗つてゐる水の波紋が起る。無花果の樹が蔽ひかぶさるやうに延びてゐる。其の波紋が静まると思ふと、又別の波紋が遥か向うの別の無花果の樹の蔭から起る。
向うに立つて居る人が、
「こちらへ来て御覧なさい。」
とさしまねく。其方へ行つて見ると、其の向うの無花果の樹の蔭から波紋を起してゐるところがよく見える。其れは少女が二人洗濯をしてゐるのである。裾をからげて赤い腰巻を出してゐるのが、あたりの末枯の蘆にうち映えて艶めかしく見える。これ等は昨夜売れ残つたあはれな遊女が洗濯をしてゐるのであるといふことを誰かが言つた。朝早くだと水売舟といふのが此の古江に浮かむさうだ。それは此の辺の井戸の水は飲めないので、木曾川の真中のいゝ水を酌んで来て売るのである。其の水を桶で買ふのも此の売れ残つた遊女の役目であるといふことである。かいつぶりが二匹遠くの方に水尾をひいて泳いでゐるのが眼に入つた。こゝは木曾、長良両大河の間にはさまれた水郷長島である。黄熟した稲田の間に沢山の水路がある。其の水路を里人は舟を漕いで通つて居る。ヴェニスの都のやうに、里人は一寸往き来するにも舟による方が便宜なのである。聞くところによると婚礼の荷物を運ぶのも、又新婦を乗せるのも凡てこの舟によるさうである。



一隻の舟が或る家の裏戸の無花果の蔭に繋いである。其の舟は無花果の葉蔭になつてゐるので、舟の繋いであることは知つてゐながらも、女が鍋を洗ふ波紋が水一面に広がつて行くのなどが目に在つて、其の舟のことは余り心にとまらなかつた。ところがいつの間にか其の舟は動き出して、葉蔭から徐々と現はれて来た。やがて其の舟は、路傍の木に鼻柱をくゝり上げられた牛が大道の真中へのさばり出たやうに、終に目の前に横はつた。何故此の舟が独りで斯くの如く動くのであらうかと思つたら、最前から無花果の葉を吹き、汀の蘆を靡かしてゐた秋風が又此の舟を動かすものであることが判つた。



向うの岸の杭の先に白いものが一つのつかつてある。其れは何であらうかと思ふ。大方洗濯物が一つ置き忘れてあるのであらう。其所は蔦の一面に茂つてをる堤の中に、細い道が水辺に降りて来てゐる。元来この古江の両岸には沢山の洗場があるのである。丁度今私の佇んでゐる処にも、女が金盥に一杯の洗濯物を持つて来て、私に慇懃に会釈した。さうして、
「御免下さいませ。」
といつて私の先に立つて水辺にしやがんだ。私は
「お邪魔様。」
といつて二足三足退いて立つた。やがて金盥の中の襦袢と腰巻を水につけてじやぶ/\と洗ひはじめた。水に浮いてゐる蓴菜の茎や岸辺伝ひに生えてゐる蘆は忽ち其の波紋が及んでゆらめき始めた。こゝでは蓴菜や蘆は大変に人間に親しいものであつた。



屋根が葺いてある。葭簀張りの粗末な屋根である。こ…

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