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小さい芸術
ちいさいげいじゅつ
作品ID53934
著者片山 広子
文字遣い新字旧仮名
底本 「燈火節」 月曜社
2004(平成16)年11月30日
初出「文化生活 第二巻第六号」1922(大正11年)6月号
入力者八巻美恵
校正者野口英司
公開 / 更新2011-10-19 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 むかしの世では、あづまから京へ、京から筑紫のはてへと、手紙を書いたり書かれたりすることが、非常に珍しひことであり、又一生のうちの幾つかに数へられるよろこびでもあつたらうと思ふ。その時代の人々の静かな余裕ある心では、その手紙のためにたくさんの時間と真心と技巧をも与へることが出来た。かれらは手紙によつて多くを与へ多くをうけることが出来たのである。あの鎌倉の月影が谷の小さな家で手紙を書いてゐた阿仏尼などは、今の私どもが訪問したり食べたり買物したり自働車と電車に乗つたりする凡ての時間を悉く手紙を書くことと子供らのための祈りとに費したのではないかとさへ思はれる。たしかに、むかしの手紙は立派な一つの芸術であり、又いかなる尊い贈物にも増して礼と愛との表現に力あるものであつたらうと思はれる。
 現代の私どもはむやみと忙しい。私どもは美しさと静かさからだんだんに遠ざかつて来てしまつた。手紙を書くといふことも、今の私どもには、さほどの歓びではなくなつて、ある時は煩しくさへ感じることがある、煩しさを感じた時に書いた手紙がどんな感じを先方の人に伝へるであらうかと思ふと、顔があかくなるやうな気がする、私どもの手紙にはあまりに時間とまごころとが足りなすぎる。
 しかし、どんなに忙しいと云つても、用事の手紙や葉書ならば、私どもは一日に何遍かいてもすこしも恐れない、さういふ手紙が、ある時は面談するよりもずうつと雄弁であり、要領を得てゐることもある。つまり私どもが忙しい中で書きづらく感じるのは用事のない手紙である。これは、たぶん、何を書いてよいのか私どもの落ちつきのない心には容易に思ひつかれないからでもあらう、又どんな文体で書いてよいかを考へるのも面倒の一つであらうと思ふ。
 今の手紙の文体はずゐぶんいろいろである。お案じ申上げてをりますといふ丁寧なのもあるし、どうぞ、さう云つて下さいといふ学生風なのもあるし、雲かとばかりあやまたれし花もいつしか散りてあとなく、若葉なつかしき頃と相成り候へば、といふやうなたいそう優しい書きぶりもある、みんな書く人の自由であるから、貰つた方でも自分の好きな恰好に返事をかいてもよいのであらうけれど、神経質な人たちはやつぱりそれぞれに書きわけをしなければ気が済まない、それからインキと墨の書きわけさへもする、だから、なほさらにおつくうに感じるのであらう。手紙の文体をもうすこし私どもの自由に書けるかたちに直して欲しいやうに私はこの頃つくづく考へはじめた。
 このあひだ私はほんの一寸した事の問合せの手紙をある人に送つた、するとその人から返事が来た、それは私が今まで貰つた友人たちの手紙の中で最も快い明るい感じのするものであつた。くり返して読んで見て、どこがどういふやうに快く響くのか、私にははつきり分らなかつた。全文中の四分ほどは私のとひあわせの返事で、二分は私の知らない…

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