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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
副題072 買つた遺書
072 かったいしょ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第五卷 蝉丸の香爐」 同光社磯部書房
1953(昭和28)年6月20日再版
初出「オール讀物」文藝春秋社、1938(昭和13)年2月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2015-06-04 / 2015-05-06
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



「親分、何をして居なさるんで?」
 ガラツ八の八五郎は、庭口からヌツと長い顎を出しました。
「もう蟻が出て來たぜ八、早いものだな」
 江戸開府以來と言はれた名御用聞、錢形平次ともあらう者が、早春の庭に踞んで、この勤勉な昆蟲の活動を眺めて居たのです。
 生温かい陽は、平次の髷節から肩を流れて、盛りを過ぎた梅と福壽草の鉢に淀んで居ります。
「大層暇なんだね、親分」
「結構な御時世さ。御用聞が晝近く起出して、蟻や蚯蚓と話をして居るんだもの」
「へツ、へツ、その暇なところで一つ逢つて貰ひ度い人があるんだが――」
「お客は何處に居なさるんだ」
「あつしの家へ飛込んだのを、つれて來ましたよ。少しばかりの知合を辿つて、入谷から飛んで來たんだ相で――」
「何んだつて庭先なんかへ廻るんだ。お客樣が一緒なら、大玄關へ通りや宜いのに」
「へツ、その大玄關は張物板で塞がつて居ますよ――木戸から庭を覗いて下さい、親分が煙草の煙で曲藝をしてゐる筈だから――と、奧方樣が仰しやる」
「馬鹿だなア」
 平次の顏は笑つて居ります。自分が馬鹿なのか、女房のお靜が馬鹿なのか、それともガラツ八が馬鹿なのか、自分でも主格がはつきりしない樣子です。
「それに、お客樣は跣足だ。大玄關からは上られませんよ――さア、遠慮はいらねえ、其處から入つて來るが宜い」
 ガラツ八は平次へ半分、後ろの客へ半分聲をかけました。
「――」
 默つて木戸を押して、庭へ入つて來たのを一と目、平次の顏は急に引き締ります。
 取亂しては居りますが、十八九の美しい娘が、足袋跣足のまゝで、入谷から神田まで驅け付けたといふことは、容易のことではありません。それに、平次の早い眼は、娘の帶から裾へかけて、斑々と血潮の附いてゐるのを、咄嗟の間に見て取つたのです。
「まア、此處へ坐つて、氣を落付けるが宜い。話はゆつくり聽かうぢやないか」
「――」
「靜、水を一杯持つて來てくれ」
 平次は縁側へ娘を掛けさせると、女房のお靜が汲んで來た水を一杯、手を持ち添へるやうに、娘に呑ませてやりました。
 蒼白い顏や、痙攣する唇や、洞な眼から、平次は事件の重大さを一ぺんに見て取つたらしく、何よりこの娘の心持を鎭めて、その口から出來るだけの事を引出さなければと思ひ込んだのです。
「有難うございます」
 冷たい水を一と息に呑むと、娘は漸く人心地付いたのでせう。頬の堅さがほぐれて、自分の端たない樣子を耻ぢるやうに前褄を合せたりしました。
「どんな事があつたのだえ――氣分が落付いたら、聽かして貰はうぢやないか」
 平次の調子は、年にも柄にも似ず、老成なものでした。
「あの、大變なことになりました」
「大變?」
「父が死にました」
 斯う言つた娘は、張り詰めた氣が緩んだものか、いきなりシク/\泣き出しました。
「唯死んだのではあるまい。――自殺したとか、殺されたとか…

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