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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
副題045 御落胤殺し
045 ごらくいんごろし
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第六卷 兵庫の眼玉」 同光社磯部書房
1953(昭和28)年6月10日
初出「オール讀物」文藝春秋社、1935(昭和10)年11月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2015-07-05 / 2015-06-09
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



「親分、――ちよいと、八五郎親分」
 ガラツ八は脊筋を擽ぐられるやうな心持で振り返りました。菊日和の狸穴から、榎坂へ拔けようと言ふところを、後ろから斯う艶めかしく呼止められたのです。
「何處だ」
 グルリと一と廻り、視線で描いた大きい弧がツイ鼻の先の花色暖簾の隙間を見落して居たのです。
「此處よ、ちよいと、親分」
「なんだ、――俺を鴨だと思つて居るのか」
 ガラツ八は背を向けました。茶店の姐さんが、客の無い怠屈さに、顏見知りの自分へ聲を掛けたのだらうと思つたのです。
「あら、私は此店の姐さんぢやありませんよ。神田から親分の後を跟けて來て、御用の濟むのを待つて居たんぢやありませんか。ちよいと、お顏を貸して下さいな、内々のお願ひですから」
 肩で暖簾を揉んで、輪廓が霞むやうな眞白な顏を出したのは、二十一、二の女、素人とも玄人ともつかぬ、拔群の艶めかしさを發散させます。
「御免を蒙らう、俺は忙しい、――御用繁多だ」
 ガラツ八は獨り者の癖に、若い女には妙に突つ劍呑でした。いやどうかしたら、獨り者だから反つて若い女には無愛想だつたのかも知れず、若い女に無愛想だから、何時まで經つても獨り者だつたのかもわかりません。
「ホ、ホ、ホ、ホツ、ホツ」
 女はいきなり笑ひ出しましたが、麻布中の空氣を薫蒸するやうな笑ひです。
「何が可笑しい」
 ガラツ八は彌造を肩のあたりまで突き上げて、拳骨の先から相手の女を睨め廻します。
「だつて、御用繁多な方が、一軒々々菊細工を覗いて、一刻半も油を賣つてるんですもの」
「何?」
「その癖、お茶も呑まずに引返すぢやありませんか。良い御用聞がそんな心掛けぢや、世間が穩やかなわけはないねえ」
「――」
 ガラツ八は弄ばれて居るやうな憤懣と、妙に腹の底からコミ上げて來る愉悦を感じました。女の調子には、皮肉な色つぽさがあつて、羽根箒で顏中を撫で廻されるやうな心持だつたのです。
 菊細工はまだ麻布の狸穴坂の兩側を本場にした頃、ガラツ八は飯倉へ用事で來た序に、此處まで足を伸して、千輪咲や原始的な細工物や、百姓家の畑に育つたまゝの菊を眺めて、引返したところを妖かしの網に引つ掛つたのでした。(註、菊細工の本場は文化以後染井巣鴨に移り、弘化年間に根津、谷中、駒込を中心として精巧な菊人形に進化し、一時中絶して、明治十年頃團子坂の菊人形に復活したのです。)
「ね、八五郎親分、洒落や冗談ぢやありません、――人一人の命に拘はる事なんだから、聽いて下さいな」
 女は差し寄つて斯う囁やくのです。
「一人の命?」
「え、私の甥が人手に掛つて死んだのに、屆けるところへ屆けても、取合つてくれる者もありません。それぢやこの世の中は闇ぢやありませんか」
 頬に通ふ香ばしい息、――それよりもガラツ八の本能は、話の重大性を直感して、この女の言ひなり放題に、茶店の奧へ通る氣になつたの…

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