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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
副題215 妾の貞操
215 めかけのていそう
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」 同光社
1954(昭和29)年6月10日
初出「オール讀物」文藝春秋新社、1950(昭和25)年3月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2017-04-28 / 2017-03-11
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「ウーム」
 加賀屋勘兵衞は恐ろしい夢から覺めて、思はず唸りました。部屋一パイにこめて居るのは、七味唐辛子をブチ撒けたやうな、凄い煙で、その煙を劈ざいて、稻妻の走ると見たのは、雨戸から障子へ燃え移つた焔です。
「火事だツ」
 絶叫した聲は、喉の中で消えました。眼、鼻、口から入る煙のえぐさは、面も擧げられない有樣です。
「親分」
 氣が付いて見ると、床を並べて居た若い妾のお關は、煙にさいなまれながらも、死力を盡して這ひ寄りざま、勘兵衞の裾にまつはりついて居るではありませんか。
「裏へ出るんだ」
 勘兵衞は夢中になつて絡みつくお關を振りもぎる樣に焔の來る方とは反對の、北向きの腰高窓に飛び付き、障子を開けて雨戸の棧を上げましたが、どうしたことか、雨戸は糊付けになつたやうに敷居に固着して、押しても突いても、叩いてもビクともすることではありません。
 幸ひ有明の行燈の灯がまだ消えず、背に迫る焔は、時々紅蓮の舌を吐いて、咄嗟の間ながら、疊の目まで讀めさうです。
「凍つて居る。畜生ツ」
 勘兵衞は恐ろしいものを見てしまつたのです。敷居に流し込んだ夥しい水が、二月初旬の珍らしい寒さに凍つて、雨戸はまさに地獄の門のやうに嚴重に閉されて居るのでした。
「親分、どうしませう」
 後ろから、おろ/\と這ひ寄るお關。肉體的にはこの上もない美しい娘ですが、命がけの危急の場合には、何んの役にも立ちません。
「騷ぐな、――此方へ來い」
 唐紙を蹴破つて、飛び込んだのは次の六疊、――勘兵衞お關の寢て居た八疊と、その次の間の六疊、――離屋はこの二た部屋きり、其處も半分は焔で、南側の縁側から障子へ、天井へと、蛇の舌のやうな火焔が、メラメラと這ひ上がるのです。
 勘兵衞は、東側の入口、三枚の雨戸の戸袋寄りの一枚に飛び付きました、――が、此處もまた、敷居の溝一パイに溢れる水が、曉近い寒さに凍つてしまつて、叩いても、押しても貧乏搖ぎもすることではありません。
「畜生奴ツ」
 勘兵衞はもう一度唸りました。火は離屋半分を包んで西側と南側には寄りつくこともならず、北窓と東の入口の雨戸が凍り付いては、中に居る者は完全に逃げ場を失つて、燒け死ぬのを待つ外はなかつたのです。
 だが、加賀屋勘兵衞は剛健で戰鬪的で、力も智慧も人並優れた大親分でした。五十は越して居りますが、これくらゐのことで、諦めて死んで了ふやうなヤハな人間ではありません。
 やにはに足を擧げて、東側の雨戸を蹴ると、三度目には大穴があき、五度目には横棧が飛んで、七つ八つ目にはどうやら人間が潜れさうな穴があきました。
「何をまご/\して居るんだ、來ないか」
 煙に卷かれてウロウロして居る妾のお關の襟髮を取つて引寄せ、穴から押し出してやつて、お尻をポンと蹴ると、續いて自分もその後から、曉近い庭の大氣の中へ大した骨も折らずに飛び出してしまひました。

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