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随筆銭形平次
ずいひつぜにがたへいじ
副題16 捕物小説について
16 とりものしょうせつについて
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「野村胡堂探偵小説全集」 作品社
2007(平成19)年4月15日
初出「探偵作家クラブ会報 一九号」1948(昭和23)年12月
入力者ばっちゃん
校正者阿部哲也
公開 / 更新2014-01-05 / 2014-09-16
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


 捕物小説は、ただもう卑俗な、全く無価値な文学であるかの様に読まぬうちから、或いは一寸めくって見て、軽侮する傾向が強いが、これは如何? 捕物小説はも一度見なおされるべきではないか。それよりも現在、捕物小説が圧倒的に大衆の支持を受けている事実を何と見ればよいのか。
 捕物小説の構成上の制約は実に大きい。第一に、ピストルも青酸加里も使えない。ビルディングで活躍することも出来ない。時間の問題にしても、ゴーンと鳴る鐘の音にしか頼るべきものがない。この様に非常に極限された制約の中で、人間と人間――心と心とのふれ合いの中に、ただ、人情の機微の中にトリックが生れ出なければならない。一切の「非人間」は活躍の余地なく、ただ「人間」そのものに関聯してトリックが生れねばならない。ここに、香り高い「人間の文学」としての捕物小説の意味がある。或いは、こんなことを云ったならば叱られるかも知れないが、捕物小説は、近頃日本に於ける一部の所謂推理小説より、文学としてはより高等な段階にあるものではないかと、聊か自負しても見度くなるのである。
 繰返して云うならば、捕物小説には、滅多な気狂が出て来ないと云うことだ。普通の探偵小説のように、ありそうもない変質者、不可存在的な――化学方程式のない毒薬などを用いてゴマ化したりはしないと云うことだ。
 これは一般の探偵小説と関聯してであるが、探偵作家には、純粋に論理的な知性が絶対に必要であると云うことである。曾て、徳田秋声と田山花袋が、「一つ大衆小説を書いて見ようじゃないか、ハッハッハ」と話し合ったということであるが、秋声や花袋は大作家ではあるが大衆文芸は書けなかったように、俺も一つ探偵小説を書いて見ようと云った作家達を、私は軽蔑する。早い話が、数学で落第点を採るような頭で探偵小説を書こうなどとは言語道断である。小酒井不木氏を始めとして、今は亡き甲賀三郎氏、大いに活躍している木々、大下、海野の諸氏にしても皆科学者であるということ、そこにも探偵小説の本質が、うかがえるのではないか。
 世の捕物小説又は探偵小説でも書こうという人達に、私はこの二つの思い付きを申上げて参考に供したい。
(談)



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