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海にふぐ山にわらび
うみにふぐやまにわらび
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人味道」 中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-10-11 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ふしぎなような話であるが、最高の美食はまったく味が分らぬ。しかし、そこに無量の魅力が潜んでいる。
 日本の食品中で、なにが一番美味であるかと問う人があるなら、私は言下に答えて、それはふぐではあるまいか、と言いたい。東京でこそほとんどふぐを食う機会がないが、徳島、下関、出雲あたりに住んで、冬から早春の候にかけて、毎日のように、ふぐを食うことのできる人を私は真にうらやましく思う。
 去る一月、私は陶土の採取のために九州の唐津へ、そして天然のすっぽんの研究のために柳河へ行った。その帰途、ちょうど下関の大吉でふぐを食うことができた。例によってなんの味もないようであったが、やはり、ふしぎな魅力をもっていた。白味噌の汁加減はあまり感心しなかったが、そこはふぐの助けである。決していやではなかった。
 翌朝、眼が覚めるが早いか、もうふぐが食いたいと思ったが、都合で広島へ出た。広島と言えば、おのずと生がきを試みねばなるまい。生がきも日頃美味いものであるとしていたにもかかわらず、ふぐを食べた翌朝の口には、到底問題ではなかった。いかに生がきに満幅の好意を傾けて、食卓の上で、剥いては食い、割っては食おうとも、その味は遂に舌端だけのものであって、人の心魂に味到する底のものではなかった。そこで夜を待って、ふぐを「ちり」にして味わい抜いた。
 そのふぐの味を、うなぎの蒲焼きの美味さ、まながつおの味噌漬けの美味さ、まぐろの握りずしの美味さなどに比較しては、全く味なきに等しいものであった。最初、びくびくものでふぐを食べた人たちが、すぐにもう「こんな美味いものを食べないという話がどこにあろうか」などと言うのも、実際、無理はないのである。
 すっぽんも美味いものであるが、このふぐに較べては、味があるだけに悲しいかな一段下である。否、その味が味として人に分るから、まだそれは、ほんとうの味ではないのである。すなわち、無作の作、無味の味とでも言おうか、その味そのものが、底知れず深く調和が取れて、しかも、その背後に無限の展開性をもっているものでなければ、真実の美味ではなさそうである。
 私は海から最高の美食の対象としてふぐを挙げることをためらわなかった。それでは山からはなにを――ということになるだろうが、差当って私はわらびと言いたい。わらびはもちろん取りたてでなければいけない。型の如くゆでて灰汁を抜き、酢醤油で食う。これが実に無味の味で、味覚の器官を最高度にまで働かせねば止まないのである。
 海にふぐ、山にわらび、この二つ、実に日本の最高美食としての好一対であろう。中国でやかましい燕巣の料理、すなわち、海燕の巣なるものも、日本のところてんを水に浸したようなもので、別に味はないが、これがなくては中国料理にその魂が抜けるという。燕巣のもつふしぎな魅力、それが次第に類を求めては、ふかのひれとなり、銀耳となる…

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