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くちこ
くちこ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人味道」 中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-10-05 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


 このごろ、酒に適する、また、美食家の気に入る美味いものの第一品はくちこの生であろう。この生のくちこは、東京には売っていない。自分たちは加州金沢から取り寄せるのである。この風味はちょっと他に類がない。このわたに似て、水分の多い目方の重いものであるが、卸値百匁十五円から二十円ぐらいの最高価格の美食のひとつである。
 多く能登に産する。表日本の方では四月ごろ見受けるが、裏日本のように美味くない。けだし寒海鼠の胎卵である。これの乾燥したものは、東京に来ている。このこと言う。これも卸値百匁十八円ぐらいだから、もとより美味い。しかし、生の美味さにはかなわない。生は桜色と朱鷺色との中間ぐらいの淡紅色で、この種のものの中で一番感じがよい。乾燥したものはいくぶん代赭色に近い。生の香りは、妙にフランスの美人を連想するような、一種肉感的なところがあって、温かい香りが鼻をつく。とにかく、下戸も上戸も、その美味さには必ず驚歎する。そうして初めて口に上す者は、そのなんであるかを当てる者は少ない。
 金沢を中心にして北陸では、一流どころの旗亭なら、大抵は突出しに出してくれる。しかし、五匁ほどだ。これをお替りすると、五円ぐらいはペロリ舌の上にすべってしまう。乾燥したくちこ、すなわち、このこは網の上に載せ、火に焙って、そのまま食ったり、椀種にしたりする。すましの椀をつくり、マッチの棒二本ぐらいに切ったものを十本ばかり入れて、なにか色どりに、このこの香りを邪魔しないツマを添えて膳に上す。主客椀の蓋を採るとき、たまらない香気を発する。価は価だけのことはある――と思わせる。中国や西洋には、こんな調子の高い美食はないようだ。青々した畳にも合う。啓書記、因陀羅というような万金の掛物をかけた座敷にも合う。根来薄手の椀にも合えば、金蒔絵にも合う。
 これは寒海鼠の胎児の話であるが、そのはらわたはこのわたであって、これは大概の人がご承知のとおり、初見おか惚れという美人ではないが、トロトロと長く糸を引くやつを、一筋舌の上に乗せ、無上の味覚に陶酔し、顔面筋肉は、心の愉悦を表現して、やや弛緩する。そのころ、燗酒ひと口、ぐっと呑み干す。味覚、味覚……、その快味は真に言うべからざるものがある。しかも、その酒杯が古染ネジなどであり、このわたの容器が朝鮮斑唐津などの珍器であったとしたら、まったくもってたまらない。人生の楽事亦多なる哉だ。
(昭和六年)



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