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家庭料理の話
かていりょうりのはなし
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人味道」 中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-12-20 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 世間の人は、自分の身近にある有価値な、美味いものを利用することに無頓着のようだ。
 出盛りのさんまより場違いのたいをご馳走と思い込む、卑しい陋習から抜けきらないところに原因があるようだ。
「腐ってもたい」などという言葉は、うかうか聞いていると、諺としてはちょっと面白いが、料理の方では大変な邪魔となって害がある。
 また、料理人のつくったものなら、なんでも結構なお料理だなぞと、軽卒に考えるのも大変な考えなしであることを、私は特に言い添えておきたい。
 なんとなれば、料理人は食道楽家ではない。みながみな有名人でもない。好き好んでやっているのでもない。味覚の天才というのも職人にはないようだ。私は多数の料理職人を注意して見て来たが、なんでもない人が多い。だから、料理道という「道」とのかかわりはない。すべて出鱈目だ。思いつきがあっても、低調で話にならない。正しい責任を持たない。鋭い五官などは働いていない。
 第一、料理道楽、食道楽に金を使って知ったという経験を持たない。従って、床柱を背に大尽振った食道楽がない。美食に非ずんば口にしないというような見識を備えていない。
 これでは道理にかなった料理はできないのが当然である。一家の主人も主婦も、この点、くれぐれも心して、料理職人を買い被り過ぎてはいけない。
 職業料理人のみにたより過ぎては、料理の発達は見られない。みずからの見識をもって、世の嘲笑を買わないまでに料理道に目覚め、各人各様の栄養食を深く考え、食によって真の健康を勝ち得てもらいたい。
 かつて畏友大村医博の話に、大倉喜八郎氏の家に料理することの非常にうまい老女中がいて、ご当人もなかなかご自慢で、出入りの来客にも評判がいいということだった。物好きな私は、一体どんな天才か、ひとつテストして見ようと思い、大村君を介して一度ご馳走になったことがあった。
 ところが、失望させられたのである。なんでもない料理屋のする料理であったからだ。たいの活きづくりだとか、そのほか様々な形式のものが出たが、それは要するに、みなお出入りの料理屋から学んだままの料理であった。
 それなら、どうしてそんなに評判になったかと言えば、大倉さんとしての自慢もあろう、大倉さんへのお世辞もあろう、素人にして玄人の真似ができるというだけを感心しての話なのであった。
 これだけのことは自分の家内ではできない、女中ならなおさらできない、料理屋と同じじゃないか、と、この程度のお世辞が、その老女中の名を高からしめ、その料理は美味いということに、下馬評として決められたのである。
 なるほど、素人にはできないことをやるから、ちょっと考えると、料理が上手だというふうに考えられる。しかし、その程度で世人が満足して、それ以上料理を考えてみないとあっては、いつまでたっても、料理道に目が覚めないであろう。
 大倉氏の自慢料理…

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