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食器は料理のきもの
しょっきはりょうりのきもの
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人味道」 中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-07-27 / 2014-09-16
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私はどうして陶磁器ならびに漆器などをつくるようになったか――みなさま大方はご存じのことと思いますが、私は料理を始めてから、ここにこうして窯を築き、陶磁器ならびに漆器類を、みずからつくっています。
 なぜ、私がこうして陶磁製作に熱中して、みずから手を下すことにしているか、傍からご覧になると甚だ物好き過ぎるように思われましょうが、本人の私は、これが当然であると思っているのでありまして、今日はお土産話に、その理由を一言申し上げてみたい。
 いずれも料理道の専門家であり、大家でおられるみなさまを前にして、料理の話をいたしますのは、いささか失礼になりますが、しばらくは、ご宥免を願いたいと思います。
 仮りに私が申してみますれば、料理も刺身なら刺身で、庖丁の冴えとか、取り合わせのツマの色、あるいは形、そういうものを大切に注意しますが、それはどういうことかと言えば、そうすることによって料理に美しい感じを与え、全体としてみれば、料理がそれによって美味くなるからにほかなりません。
 こういうふうに、料理において尊ぶ美感というものは、絵とか、建築とか、天然の美というものと全く同じでありまして、美術の美というも、料理上の美というも、その元はひとつで、同じ内容のものであります。
 そこで、料理そのものを美化すると同時に、みなさまが毎日注意しておられる、料理を盛る器も、あれこれといろいろに苦心が払われているのです。料理を問題とする人は、勢い食器をも同等に問題とする。これが当然の成り行きであります。
 と言うのは、私の見るところでは、今日ひとつとして見るべき食器が生まれていない。それと言うのも、料理業者及び料理人の食器に対する関心が不足しているからで、よい食器が生まれて来ないのであります。料理業者とか料理人こそは料理をやる人であり、従って食器を預かる人ですから、こういう人が食器に対する関心を高めるなら、いやでもよい食器が生まれてくるでしょう。「俺の料理はこういう食器に盛りたい、こんな食器ではせっかくの俺の料理が死んでしまう」と、昔の茶料理のようになってこそ、初めて、よい食器が注意され、おのずとよい食器が生まれて来る。食器をつくる人が、それに応じて高い美意識から立派な食器をつくらねばならぬようになる。
 こういう次第で、よい食器の出現を計らおうと思えば、料理業者や料理人が製陶業者を率いるのでなければならない。結局、食器を使う業者の無関心ということが、今日、料理上食器の不振を来たし、よい食器皆無の因をなしているのであります。
 一方、たまたまある食器名器というものは、いずれも故人のつくったもので、今日では、そういうものは一個の美術品として、骨董品になってしまっている。そこで料理を根本的に進め、本格的なお膳立てをしようと思えば、どうしても、それらの骨董品でも使用するか、然らずんば、みずから…

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