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味覚の美と芸術の美
みかくのびとげいじゅつのび
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人味道」 中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-07-17 / 2014-09-16
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 すべての物は天が造る。天日の下新しきものなしとはその意に外ならぬ。人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ。しかも、それがなかなか容易な業ではない。多くの人は自然を取り入れたつもりで、これを破壊し、天成の美を活かしたつもりで、これを殺している。たまたま不世出の天才と言われる人が、わずかに自然界を直視し、天成の美を掴み得るに過ぎないのだ。
 だから、われわれはまずなによりも自然を見る眼を養わなければならぬ。これなくしては、よい芸術は出来ぬ。これなくしては、よい書画も出来ぬ。絵画然り、その他、一切の美、然らざるなしと言える。

 仮りに私の食道楽から言っても、ここに一本の大根があったとする。もし、その大根が今畑から抜いて来たという新鮮なものであるならば、これをおろしにして食おうと、煮て食おうと、美味いに違いない。だが、もし、この大根が古いものであったならば、それはいかなる名料理人が心を砕いて料理するとしても、大根の美味を完全に味わわせることは出来ない。天の成せる大根の美味は、新鮮な大根以外にこれを求めることが出来ないからである。
 また、ここに一枝の花があったとする。その花が、新しく今咲き出たばかりのものであるならば、それはそこに何気なく投げ出してあっても美しい。だが、もし、これがすでに萎れかかっているような花であるならば、いかなる名手が、いかなる名器に活けようと、花の美は天成的に味わうことは出来ない。人工人為は所詮天成に代え難いからである。

 以上述べた如く、美の源泉は自然であり、美味の源泉もまた自然にある。こんなことは非常に簡単なことであり、これを証する例を挙げよとなればいくらでもある。だが、この簡単な事柄がなかなか一般人には解らない。そのために無益な努力をして、例えば、料理ひとつにも、つまらない小細工をして、余計な味をつけたり、絵ひとつ描くにも、才に任せて無理に形を整えたり、無闇に絵具を濫用する。
 料理の技術だけなら、絵画の技術だけなら、現在も人はいくらでもある。しかも、私が現代に画人がなく、料理人がないと断言して憚らないのは、実にこの自然界がもつ美を掴み得る人がいないからにほかならぬ。これについては、なお述ぶべき事柄は多いが、ここではすべて省略して次に進むこととしよう。要は、まず自然の美を発見することから学ばねばならぬということである。

 さて、次に問題となるのは、しからば、自然であれば、すべて美であるか、自然のものはすべて美味であるか、という疑問が起こることだ。およそ自然ほど不可思議にして玄妙なるものはない。天の成すや、一定の目的あるが如く、またなきが如くである。天は光を注ぎ、熱を与え、また雨を降らして草木を育成する。そこになんらかの目的があるように思えぬことはない。しかるに、また天は時に雷…

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