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道は次第に狭し
みちはしだいにせまし
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人味道」 中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-07-17 / 2014-09-16
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 先日、ある雑誌記者来訪、「ものを美味く食うにはどうすればいいか」とたずねた。
 世の中には、ずいぶん無造作に愚問を発する輩があるものだ。思うにこういうふうなものの聞き方をする連中は、その実、料理など心から聞きたいわけではないに決っている。お役目で人の話を聞こうとするが、もとより真から聞きたいのではない。そこで私は言下に「空腹にするのが一番だ」と答えてみた。その男は、しばし二の句が継げずにいた。
 また、これも似たような話であるが、ある時、一流料理人を求めた際、メンタルテストをして、君の好きなものはなにか? と、質問してみた。すると、ただ漠然と「さかなが好きです」と答えた。
 専門の一流料理職人が、こういうことでは困る。得てして料理職人にはこんなのが多い。この男は上方の人間だから、さかなというのはたいを指して言ったものだろう。たしかに関西のさかなは美味い。が、表現に教養がなさすぎる。子どもに向かって、「坊やどこへ行くの」と聞くと、「アッチ」と答えるのと同じである。
 もちろん、こんなのは落第させてしまったが、こういう男は自分がなにが好きであるかさえ正直に言えないのみならず、実のところ、美食にまるっきり精通していないのである。好きなものが、はっきり言えないのは嘆かわしい。つまり、味覚に対して無神経であるか、もしくは初めから味覚に対して鈍感なのだ。味の分らないものが、味に興味を持っていないのは当然であって、いくら山海の美味を与えてみたところで、仔細には美味いとも不味いとも感じないだろう。こういう輩には腹を空かせば美味いよと、答えるほかはないのである。
 ついでだから余計なことを言うが、味が分らないということは名誉でも不名誉でもない。生まれつきであってみれば、鼻が高いとか低いとかいうことと同じ、別に恥ずかしいことでもない。ただ、そういう人は、美味いものをつくろうとか、料理を覚えようとかするには不向きだ、と言うまでである。杖をなくした老人に似て、人並みの楽しみを減じている気の毒な人だ。
 ところが、「人飲食せざるは莫し、能く味を知るもの鮮きなり」などと孔子が言っている通り、人と生まれて食わぬ者はひとりもないが、真に味を解し、心の楽しみとする者は少ない。そこで鈍感な者には、腹を減らせばよかろうと、奥の手で得心させる。これなら間違いはない。
 だが、そう言ってしまっては話にならぬ。また、味を解する者はないと言っても、まるっきり味が分らぬということは実際にはないのだから、一応は腹を減らせと言ってみるが、そこにはだんだんと道がある。味が分らねば分らないなりに、やはり、好き嫌いがあり、嗜好があり、まるっきり打ち捨てたものでもない。
 先日、ラジオで病人料理というものを放送していた。病人料理などというものは、いわゆる薬食いであるから、本来の意味での料理ではない。だが放送に当って…

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