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持ち味を生かす
もちあじをいかす
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人味道」 中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-07-17 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 生かすことは殺さないことである。生かされているか殺されているかを見分ける力が料理人の力であらねばならぬ。神様が人間に下し給うたとみるべき人間食物の個々の持ち味は、残念でも年を経るに従って、人間の猪口才がすべてを亡ぼしつつあるようだ。
 例えば砂糖の乱用が、おのおの持つところの異なった「味」を破壊し、本質を滅茶苦茶にしている如き、それである。砂糖さえ入れれば美味いとする今の料理は、極端に味覚の低下を示している。砂糖や「味の素」類品の跋扈に拍車をかけているのは、料理する者の無定見である。この無定見が、味覚を無神経にし、天然自然によって与えられている個々の美しき「味」に盲目となり、「味」を心に楽しむ世界から葬り去っている。従って、通り一片の栄養学説が栄養受け入れを不充分にしていることは言うまでもない。
 物を食うにも、物を楽しむにも、味わう上からも見識があってよい。見識ある食の摂り方は、心身を健全に導くようである。人間を豊かにすることも否めない事実だ。われわれが料理に関心を寄せる点は、ここにもある。美味い美味いの連続で、舌と心をよろこばせ、それが心身の健全に役立つ結果を見ては、並々の関心ですましてはいられない。一途によき指導者を自然の中に求め、たぎる情熱を傾けつづけて来たのは、そんなところにある。それを五十年もつづけて来たのであるから、われながら、たいへんな情熱である。
 しかるに私の見る世人の多くはというと、十人が十人、味覚にうとく、美味い不味いの判別を全く欠いているのである。生活に余裕を失った現状にあっては、無理もないことと許せないでもないが、多くの人々の心構えにも間違いがないとは言い切れない。
 よくなにが食いたいとか、なにを食うかとたずねられる場合、私はなんでもよい、僕もなんでもよいと、冷然たる受け言葉が間々見られる。これほど不見識な挨拶はないのであるが、別段ふしぎでもなく、まかり通っている。けだし無価値な人間なのではなかろうか。なになにが食いたいという好みは、口になじむばかりではない。言い換えれば、その時の自分にピッタリした栄養を求めていることなのである。家畜のように宛てがわれた食物を無条件に鵜呑みでは、臓器栄養部では充分の能動に事欠くであろう。好むものを食って楽しみ、好みの栄養を摂ってこそ、個性は生かされるのである。
 近代人には近代人の食いものがあろう。なにを好もうがそれは自由であるが、不見識に付和雷同し、各個の自由を見失っている場合、少なしとしない。小生はこれを憂うるのである。ここが重大問題である。日本のように世界随一の美食宝庫に生を享けながら、俺はなんでもよいんだ、刺身可、トンカツ可、中国料理可、てんぷらよかろう、すしよかろう、人のくれたものなんでも感激なく黙々食う。こんなに自己存立を無にする輩の多い今の日本は、この上、さらに顔色すぐれざる人間…

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