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料理は道理を料るもの
りょうりはどうりをはかるもの
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人味道」 中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年4月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-08-10 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 日本料理の革新を叫んで星岡を始めたころ、私が板場へ降りて仕事をしだすと、料理材料のゴミが三分の一しか出ないと、ある料理人から言われた。料理材料の不用分を私が処理すると、捨てるところが減少してしまうからである。私は今でもそれを誇りにしてよいと思っている。ある時、板場へ降りて行ってみると、ふろ吹き大根をつくるというので、勇敢に大根の皮を剥いている。皮だから捨ててしまえばそれまで、糠味噌へ入れれば漬けものになるし、そのほか、工夫次第でなんにでも重宝に使える。
 こんなことを廃物利用と人は呼んでいるが、大根の皮の部分というものは、元来、廃物ではない。廃物だと言うのは、料理知らずのたわごとである。皮の部分にこそ、大根の特別な味もあり栄養もある。だから、元々、皮を剥いて料理すべきものではない。皮を剥く場合は、お客料理としての体裁か、また、大根が古くて皮が無価値になっている場合とかにかぎるのである。そこのところが分らない料理人は、なんでも皮を剥いてしまう。私は鎌倉で、大根を食う場合は、いつでも畑から抜きたてのものを用いる。もちろん、そういう新鮮な大根は、皮などもったいなくて剥けるものではない。
 その道理の分らない無教養な料理人は、鎌倉で抜きたての大根をあてがっても、皮を剥いてしまう。食う相手が私である場合には、そんなもったいないことをしてはいけないと言って、いつも教えてやるのだが、もちろん、相手にもよる。半可通のお客が来ていれば、そのお客に合わして皮を剥くのも、ときには必要となろう。だが、大根の皮は、貴重なものであるということを、初めから呑み込んでいるのでなければ、ほんとうの料理人とは言えない。料理の憲法を学ばない輩は困ったものだ。単に大根にかぎらない。例えば、わさびの軸である。あれをみな捨てているが、わさびの軸の色は青々として清々しく、シャキシャキして歯当りの感触もよし、味もちょっと辛くて、使いようによっては、皮肉にもまたよいものである。箸洗いなどに配してもシャキシャキして活きる。他の何物をもってしても、わさびの軸に優るものはざらにない。
 私がこういう話をしだすと、至らない若者の中には、ケチで言うかのように考えるものもあるが、ケチであるかないかはほかのことを見れば分る。私がそうせずにおられないのは、料理し得るものを料理しないということは、料理人として冥利がつき、権威にもかかわると思うからだ。
 料理材料というものが何万何千あるか知らないが、ひとつとして、それ独自の持ち味を有しないものはない。どんなものにも、ほかのものでは代用し得ない持ち味があるものだ。天がつくり地がつくった自然の力がものを言っているからである。料理が材料の持ち味を活かすことにあるとすれば、利用し得るものすべてを利用してこそ、初めて料理という名に価し、料理人たるの資格があると言い得る。それこそ料理の…

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