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芳賀博士
はがはくし
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「近代作家追悼文集成 第二十一巻」 ゆまに書房
1992(平成4)年12月8日
初出「国語と国文学 4巻4号」至文堂、1927(昭和2)年4月1日
入力者岩澤秀紀
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2014-01-01 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

龜原の木立のひまに夕日しづみ悲しくも君をはふりつるはや
 これは、芳賀博士を音羽護國寺なる墓地に埋葬した日、遺族及び多くの知己門下の人々のかげに立つて、まむかひの雜司が谷龜原の冬木立の間に沈みはてた夕日を眺めつつ、心のうちに湧きおこつた感懷をさながらのべたのである。
 廬山にあつて廬山を見ずといふ如く、多年親しく博士に接してをつた爲に、却つてその傑出した點を感じつつも、明確に考へるといふやうなことはなかつたが、今その遠逝にあうて、のこされた學問上の功績を思へば、博士が、明治の中葉以後に、新國學を樹立せられたことは、まさに江戸時代に於いて、荷田春滿が國學を建設したのと、その功相通うてをるものがある。
かくの如き博士は、また人格の上に於いても、現代稀に見る所であつて、よく後進を導き、情誼に厚かつた。博士の輪廓は、その名著國民性十論の中の論旨を、そのまま具體化した如き感がある。
 我が國民性の第一の特質たる「忠君愛國」に就いては、殊にその念が深かつた。忠君の一二の例としては、博士の著國文學史概論の結末に次の如く書いてある。
「終に臨みて先帝に咫尺し奉りし余が榮譽を記念せしめよ。時は明治四十五年七月十一日、東京帝國大學卒業式に臨幸あらせられし際、余は親しく御前に於いて元暦校本萬葉集、藍紙本萬葉集等に就いての御説明を申上ぐるの榮譽を擔へり。余は元暦萬葉がかつて靈元上皇の御覽に入りたることを奏上し、又塙保己一が其の數卷を覆刻せる事等を言上せしに、一々御會釋を給ひ、玉體を屈めて其書をみそなはししかしこさ。還幸の後數日御不豫の報傳はり、萬民深憂天地に祈りしかひもあらせられず、崩御ましまししは月の三十日にて、御前講演の後僅かに三週日、當時龍顏麗しかりしかば、爭でかかる事あるべしとは思ひかけんや。其の日御疲勞殊に多かりしと後に承れるも恐懼身の措く所を知らず、此日の大學行幸の最終の御臨幸となりしぞ悲しき。」
 後、宮内省御用掛を拜命して、今上陛下の東宮におはしましし時、國文の御進講を申上げるやうになられたに就いては、最後の御奉公であると、非常に感激し、精勵してをられたことであつた。こたび大正天皇の奉悼歌の歌詞を作られた事も、いかに榮譽と喜ばれた事であらう。しかしてその作歌が、博士の文學的勞作の最後のものであり、御大葬の前日の曉世を去られたのも、御さきを仕へて大御供をせられたかとも感ぜられる。また、愛國に就いては、ある年の大學國文科の卒業生の會の折、この夏輕井澤にいつて、新玉鉾百首といふをつくり、國體に關する自分の思想をのべて見たいと思ふといはれて、すでに出來た數首を語られたこともあつた。次に、「家名を重んず」ることに就いては、博士の父眞咲翁は、井出曙覽の門人で、かの志濃夫廼舍歌集には、その眞咲に與へた作が入つてをるが、博士はそを家の誇として、よく話してをられたことであつた。(博士…

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