えあ草紙・青空図書館 - 作品カード


広告

魂を刳る美
たましいをえぐるび
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「魯山人陶説」 中公文庫、中央公論社
1992(平成4)年5月10日
入力者門田裕志
校正者雪森
公開 / 更新2014-11-19 / 2014-10-13
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
えあ草紙で読む
HTMLページで読む

広告

find Kindle 楽天Kobo Playブックス

find Audible YouTube

本の感想を書き込もう web本棚サービスブクログ作品レビュー

青空文庫の図書カードを開く

find えあ草紙・青空図書館に戻る

楽天Koboで表紙を検索

広告

本文より


 陶器だけで美はわからぬ。あらゆるものの美を知って、それを通して陶器の美もわかる。そして本当にわかるということは、本当にそのものに惚れることである。
 本当に惚れることが出来るか、これが問題である。下手ものにでも自分が真剣に惚れるなら、そのものの持ち味だけはわかるだろう。多くは他動的である。他人の言葉に引きずりこまれることが多い。甚だしいのは美に見えなくて金に見える。また、半分美に見えて、半分金に見えるというのもある。
 各自の眼には程度がある。各自の力の範囲だけしかわからぬ。従って、百人のうち一人の偉大な評価力をもったものがわかると、他の九十九人の人の見る美はムダになる。とかく世間にはでたらめが多い。自分ではそう感じなくてもでたらめである。
 ものの美を見るのは、単に眼慰みか、それとも心の友だちとするのか。心の友だちとすることは魂と魂との交流がなくてはならぬ。そうなれば本物であり、極楽の世界である。ちょうど、この頃の絵慰みのように、客向きや展覧会をねらったもののなかには美はない。どうも心臓を剖られるというわけにはいかぬのが今の絵画だ。
 作品が無心に作られたものであり、無我の境において作られたものであれば心打たれる。だがなかなか無我の境地にはなれない。それには修行が必要だ。多くは虚栄心に動かされて仕事をする。これではいいものが出来るわけがない。信仰の的となる仏画は、これ最初、無落款であった。のちに落款を入れるようになった。
 こうなると信仰的崇高さは失われて玩具的になる。自分が口を極めて言うことは、とかく世間とは反対になる。美術界には掘り出しということがある。これも計らざる掘り出しをしてもらいたいものだ。掘り出しをやる人には、美が見えなくて金高が見えることが多い。それではいかぬ。
 また、いいものばかりある店で、その中からいいものを求めることは容易である。安物の中から更に値切って求めるような行き方をする人の根性は、汚なくて、いいものは集まらない。
 鍋島、柿右衛門には工芸美術的なよさはあるが、精神力には欠けている。そこへ行くと古九谷には道楽気があって、芸術味が含まれている。無我夢中になってやった仕事には魂が入っている。古九谷と鍋島には町人と武士の違いがある。町人の道楽には案外面白いところがある。
 要するに魂を刳る美が欲しい、ということである。
(昭和二十二年)



えあ草紙で読む

ライフメディアへ登録

Koboユーザー必見!
楽天スーパーポイントとは別に
価格の5%がポイントに!

find えあ草紙・青空図書館に戻る

© 2016 Sato Kazuhiko