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論語とバイブル
ろんごとバイブル
作品ID55192
著者正宗 白鳥
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆 別巻100 聖書」 作品社
1999(平成11)年6月25日
初出「読売新聞」1904(明治37)年10月15日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-01-22 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 吾人はアレキサンダー、シーザー、ナポレオンなど所謂英雄なる者の社会に存在したことを喜ばぬと共に、基督、釈迦、孔子など所謂聖人なる者の出現を謳歌せぬのである。世の識者という中には、武人的英雄物質的英雄の人世に不幸を増したことを認めながら、一方に聖人が人間を救済し、現世に幸福を下した如く考える者もあるが、彼等は果して赤裸々の個人として見て、それ程の人物であったか、其の言う所行う所、吾人凡俗を遥かに擢んでていたのであるか。
 吾人は彼等聖人に対して、非常に僻見を有している、少時より一も二もなく、尊い人と教え込まれて、公平に観察する力はなくなっている。基督教的教育を受けて、基督は神であるという考えが頭に染み込むと、冷静に批評する余裕もなくなり、何となく勿体ない気がして、生理学者が動物を解剖するような態度で、基督に分析的研究を加えるに躊躇する。よし又宗教の信仰がなくても、幾千年の間、幾億万の人間が賢愚共に崇拝する人は、まさか凡人ではなかろうと思われる、ろくろく研究もせず其の経典の一頁をも読まずとも、何となくエラそうに見えるらしく、公平な見識を抱けりと自称する人は、孔子釈迦基督が世界の聖人大君子救世主とは自明真理の如くに信じている。されど無邪気に、小児の如き心を以て所謂古聖人を研究すれば、吾人と左程の懸隔なき人間に過ぎぬ。人世に幸福を与えたかも知れぬが、其れと共に大弊害を生じたのである。或いは彼等が後代を動かして今日まで其の勢力の存するを見て、大人物だというかも知れぬが、其れはほんの偶然の結果である。若し名誉とか不朽の事業とかで尊き者と仮定すれば、基督をしてかかる大名誉を得させ、かかる百代の事業をなさしめた大恩人は、ピラトであろう。彼れ若し磔刑に処せられなかったならば、基督は神として伝わらなかったであろう。従って十字軍も起らず、新教徒の迫害もなく、不道理極まる罪の観念に悩さるることもなく、後代の人間は、一層面白く世を楽んだであろう。基督一人の名誉の為に、西洋幾億万の人間は幸福を減じたこと夥しい、しかし基督自身は名誉心の為にかかる事業を企てたのでもないから、咎める訳にも行かぬが、其の代り大人物でもない。彼が後代に残した勢力は善悪共に偶然である。孔子とても釈迦とてもそうである。人或いは此等二三の聖人が出現しなかったらば、社会は如何に野蛮極まるであろうという者もあるが、これは一面を見た人の議論に過ぎぬ、古代希臘など、あらゆる基督教国の歴史に類のない幸福な国であった。人間に備わる五官の慾望を円満に満足させ、現世の幸福を極度まで楽んだ、吾人が理想に近い国であったらしい。
 剣菱茲に論語、聖書の中より二三節を抜摘して、公平なる批評を加えて、孔子や耶蘇が何れ程利口な事をいったか研究して見よう。昔からこの二つの書は註釈や批評が無限であって、一字一句の研究にも幾多の人間を苦しめ、色んな…

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