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新婚旅行
しんこんりょこう
作品ID55193
著者正宗 白鳥
文字遣い旧字旧仮名
底本 「正宗白鳥全集第十二卷」 福武書店
1985(昭和60)年7月30日
初出「中央公論 第四十一年第一号」中央公論新社、1926(大正15)年1月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者山村信一郎
公開 / 更新2013-12-08 / 2014-09-16
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

新婚旅行

 例年の如く、晩秋のこの頃は、黄ろい葉や紅い葉で色取られて、箱根の山は美しい。この山に限らない、何處の山でも何處の田舍でも、秋は美しいに違ひない。
 晴れ切つた、風のない空に、烏が幾羽も浮んでゐる。
 山中でも温かい日盛りの午後の二時頃。
 一人の男と一人の女とが、宮ノ下の電車の停留所へ、足早に坂を登つて來た。彼等の乘つた二等室には、他には乘客がなくつて借し切り見たいであつた。
 この二人はさう美しい人間ではなかつたが、目鼻立ちが小奇麗であつた。男は面長で痩形で、若いくせに寒がりらしく、厚ぼつたい温かさうな外套を着てゐたが、腕には力があるのか、可成りに大きな鞄を輕々と提げてゐた。その鞄には、彼等の昨夜の宿を示してゐる塔ノ澤××樓の札がついてゐた。
「箱根では何處が一番美しかつた?」と、車内の席に腰を落着けてから、男は訊いた。その聲は澄んでゐて、柔しくもあつた。
「今通つて來た所は、隨分奇麗だつたわね。」と、可愛らしい小柄な女は、柄に似合ない凜とした聲で答へた。彼女はコリ/\した地質の、色合ひのけば/″\しくない、年よりも地味な者を薄く着てゐた。
「宮城野の村がよかつたね。山よりも、柿の生つてる百姓家なんかの方が僕には面白かつた。……湖水はどうだつた?」
「湖水もよかつたわね。でも、湖水を見詰めてると、淋しい感じがしてよ。」
「あの邊はもう秋が過ぎて冬らしかつたからね。……大涌谷は?」
「いやな所ね。あたし、腰のところがまだ痛くつてよ。駕籠を舁く人は苦しいでせうね。乘つてる人でさへあんなに苦しいんだから。」
「來月神戸へ行く時には、外國航路の汽船に乘つて行くことにしようね。」
「えゝ。」
「汽船のベツドルームは、帝國ホテルのよりもいゝよ。特等か一等でなきや駄目だけれど。セコンドキヤビンのお客はまるで待遇が違ふんだよ。」
「さう?」
 女は懷中鏡を出して、顏をいぢくり出した。窓外では、見窄らしい身裝をした朝鮮工夫が道路の修繕をしてゐた。僅かばかりの石を入れた籠を重さうに脊負つてノロ/\と坂を上つて來る工夫もあつた。彼等の宿泊所らしいトタン葺きの、山の夜風をどうして凌ぐかと思はれるやうな、隙間だらけの假小屋が見下ろされた。
「僕が一昨年の今時分、地震後に此處へ遊びに來た時には、それはひどかつたんだよ。自動車が谷へ轉び落ちたまゝになつてゐたり、レールが弓のやうになつて谷へぶらさがつてゐたりしてゐて。これぢや、三年や五年で登山電車が恢復する見込みはあるまいと思はれたのだが、よくこんなに早く元のやうになつたものだ。人間の力も馬鹿に出來ないものだね。」
 男はふと感激した口を利いた。女は默つて、化粧紙で小鼻のあたりを拭つてゐた。窓外を見てゐた男は、目を轉じて、女の、小さな、可愛らしく渦を卷いてゐる耳をそつと見詰めた。
「あなたは臙脂がお好き?」と、女はふと訊ね…

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