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認識論としての文芸学
にんしきろんとしてのぶんげいがく
作品ID55393
著者戸坂 潤
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集第四巻」 勁草書房
1966(昭和41)年7月20日
初出「唯物論研究 五十一号」1937(昭和12)年1月号
入力者矢野正人
校正者青空文庫(校正支援)
公開 / 更新2012-10-14 / 2014-09-16
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 文芸学の対象は云うまでもなく文芸である。尤も従来の日本語の習慣によると、文芸は又文学とも呼ばれている。文学という言葉は通俗語として、又文壇的方言として、特別なニュアンスを有って来ている。単に文芸全般を意味する場合ばかりでなくて、却って小説とか詩とかいう特定の文芸のジャンルを意味したり、又はそうでなくて、一つの作家的乃至人間的態度を意味したりもしているのである。丁度詩という言葉が文芸の一つのジャンルを意味すると同時に、文芸全体に渡る一つのエスプリを指す場合があるように、文学という言葉も亦、往々にして芸術の一領域ばかりでなくて文芸創作の精神を指すようだ。そしてこの文芸的精神が、日本の社会の与えられた文化事情の下では、特に「小説」(実は小説=ロマンというよりも「短篇小説」・エルツェールンク・ノヴェル=「中篇小説」なのだが)、又は精々「詩」=ポエムというジャンルとなって発現する処から、小説や詩というジャンルが即ち文学だというような潜在観念を産んでくるのである。文学すると云うような場合、案外この文壇的な潜在観念が働いているのであり、又文学以前と云う時には愈々この潜在観念が明らかになるだろう。
 だが、文芸全体を意味したり或いは特定の一つ二つの文芸ジャンルを意味したりするよりも、文芸創作(乃至之に直接して享受)のエスプリ・精神・を意味する方が、文学という言葉として高く買われていいだろうと思う。なぜというに、文学が暗に、小説とか詩とかいう特定ジャンルを指すかのように思うのは、勿論視野の狭い見地を告白するものであって、他の事柄についての見識までが疑われる底のものであるし、又文芸全体を依然として文学と呼ぶことは、折角文芸という科学的な言葉があるのに、非常に観念のハッキリしない言葉をわざわざ使うことになるからである。
 なぜ文学という言葉がハッキリした観念を云い表わさぬか。日本語の固有な慣例はとに角として、少なくとも国際的な用語としては、文学は一般に文筆作品を意味しているのであって、科学上の文献や文書までも含むのだから、文学は必ずしも文芸に限定されないわけなのだ。それ故特に芸術的文学だけが、所謂文学というものに当るということになって、芸術領域の問題に関する限りは(精神の問題に関しては別として)、文学という言葉は無用な混雑を惹き起こすものに過ぎないからだ。
 東洋乃至日本には、文芸と文献(フィロロギー)との区別は概念上あまり判然としない伝統が存在している。夫は文芸作品自身が社会にとって多分に教訓的な意義を有っていた一種の封建的・文化政治的・イデオロギーの結果であったかも知れない。文芸作品はこの場合、暗誦訓詁すべきものとしての古典とされ典拠とされた。だから之は一つの文化史的な知識に還元されて了う。かくて文芸は文献学(フィロロギー)に帰するわけだ。文人とは一種の学者である。それが文…

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