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日本の民衆と「日本的なるもの」
にほんのみんしゅうと「にほんてきなるもの」
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集第四巻」 勁草書房
1966(昭和41)年7月20日
初出「改造」1937(昭和12)年4月号
入力者矢野正人
校正者青空文庫(校正支援)
公開 / 更新2012-10-18 / 2014-09-16
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 文壇と一部の評論壇では、一口で云うと「日本的なるもの」の検討が風をなしている。私がこう口を切ると、そら公式主義者が「日本的なるもの」にケチをつけようとするものだ、と推量する周章者も少なくないかも知れないが、そう注文通りには行かないのである。併し公式主義という評語はすでにあり公式主義的に使い古された、何とかもう少し利き目のある評語を考え出すことが必要だろうと思う。それが考え出せぬとすれば、公式主義呼ばわりは、犬の遠ぼえのようなものと云わざるを得まい。
 だが何はともあれ、私は今、公式主義者ではないのだ。なぜなら私は今、諸君と一緒に、正に「日本的なるもの」を探究しようとしているのだからである。ただその視角が、その力点が、諸君と多少違うかも知れない。そしてそこが勿論私の要点をなすのである。
 話しを少し別な一見遠い処から始めよう。私はかつての道徳の概念を論じて、社会科学的な道徳の概念と文学的な道徳の概念とを区別したことがある。前者は道徳律や良心や人倫的習俗として、社会の上部機構の形で現実に存在する道徳現象のことであり、実在的な範疇としては、之が最も科学的な道徳概念なのである。併し之は社会科学の取り扱う対象であっても、必ずしもこの対象を捉えさせる方法にぞくするものだということは出来ない。もし道徳に社会科学の方法という資格でも与えられるとしたら、結果は世間によくある理想主義や自由主義のように、倫理学主義と呼ばれている例の社会観に陥らざるを得ないだろう。だからこの場合の道徳はあくまで実在するそのままの道徳のことで、之に万一方法上の用具として抽象されたものとして動いて貰っては、その結果は全く科学的でなくなって了って、甚だ困るわけなのである。
 処が文学的な道徳概念は、もはやこうした実在する道徳を云い現わすものではない。無論道徳と呼ばれるものがそう幾つもあるものではない。之なら之と一つに決った実在的なものだが、今はこの一つに決ったものに基く処の、夫々異った概念のことを云っているのだ。まず抑々から云うと、文学は一種の認識だと云っていい。認識ではなくて表現だとか、認識だけではなくて表現の方が大事だとかいう反対もあるが、表現しないで認識しようなどということは、元来虫のいいことで、科学だって表現しなければ、科学的認識にならないではないか。観察のしっぱなしや、考察のしっぱなしでは、科学ではない。科学は観察や考察の結果を科学的な形象に表現することで、初めて仕事として実在するのであり、歴史的にも伝承されるのだ。で、こういう意味で文学はとに角一種の認識であるが、この認識という能動的な機能の一環として、道徳という観念が出て来るというのが、文学的な道徳概念ということの意義なのである。つまり之は、実在する所謂道徳のことではなくて、文学的認識に於ける、認識論上の、或いは又文芸学上の、一つの方法的…

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