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まど
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第一卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年5月28日
初出「文學時代 第二巻第十号」1930(昭和5)年10月
入力者大沢たかお
校正者岡村和彦
公開 / 更新2012-11-30 / 2014-09-16
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 或る秋の午後、私は、小さな沼がそれを町から完全に隔離してゐる、O夫人の別莊を訪れたのであつた。
 その別莊に達するには、沼のまはりを迂囘してゐる一本の小徑によるほかはないので、その建物が沼に落してゐるその影とともに、たえず私の目の先にありながら、私はなかなかそれに達することが出來なかつた。私が歩きながら何時のまにか夢見心地になつてゐたのは、しかしそのせゐばかりではなく、見棄てられたやうな別莊それ自身の風變りな外見にもよるらしかつた。といふのは、その灰色の小さな建物は、どこからどこまで一面に蔦がからんでゐて、その繁茂の状態から推すと、この家の窓の鎧扉は最近になつて一度も開かれたことがないやうに見えたからである。私は、さういふ家のなかに、數年前からたつた一人きりで、不幸な眼疾を養つてゐるといはれる、美しい未亡人のことを、いくぶん浪漫的に、想像せずにはゐられなかつた。
 さうして私は、私の突然の訪問と、私の携へてきた用件とが、さういふ夫人の靜かな生活をかき亂すだらうことを恐れたのだつた。私の用件といふのは、――最近、私の恩師であるA氏の遺作展覽會が催されるので、夫人の所有にかかはるところの氏の晩年の作品の一つを是非とも出品して貰はうがためであつた。
 その作品といふのは、それが氏の個人展覽會にはじめて發表された時は、私もそれを一度見ることを得たものであるが、それは難解なものの多い晩年の作品の中でもことに難解なものであつて、その「窓」といふごく簡單な表題にもかかはらず、氏獨特の線と色彩とによる異常なメタフオルのために、そこに描かれてある對象のほとんど何物をも見分けることの出來なかつた作品であつた。しかしそれは、氏のもつとも自ら愛してゐた作品であつて、その晩年私に、自分の繪を理解するための鍵はその中にある、とまで云はれたことがあつた。だが、何時からかその繪の所有者となつてゐたO夫人は、何故かそれを深く祕藏してしまつて、その後われわれの再び見る機會を得なかつたものであつた。そこで、私は今度の氏の遺作展覽會を口實に、それに出品してもらふことの出來ないまでも、せめて一目でもそれを見たいと思つて、この別莊への訪問を思ひ立つたのであつたが。……
 私は漸くその別莊の前まで來ると、ためらひながら、そのベルを押した。
 しかし家の中はしいんとしてゐた。このベルはあまり使はれないので鳴らなくなつてゐるのかしらと思ひながら、それをためすかのやうに、私がもう一度それを押さうとした瞬間、扉は内側から機械仕掛で開かれるやうに、私の前にしづかに開かれた。


 夫人に面會することにすら殆んど絶望してゐた私は、私の名刺を通じると、思ひがけなくも容易にそれを許されたのであつた。
 私の案内された一室は、他のどの部屋よりも、一そう薄暗かつた。
 私はその部屋の中に這入つて行きながら、隅の方の椅子か…

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