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なぎさ
作品ID55616
著者室生 犀星
文字遣い旧字旧仮名
底本 「はるあはれ」 中央公論社
1962(昭和37)年2月15日
初出「群像」1961(昭和36)年7月1日
入力者磯貝まこと
校正者岡村和彦
公開 / 更新2014-08-09 / 2014-09-16
長さの目安約 32 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 齒醫者への出がけに、ななえが來た。
 鮒の子を持つて來たんですけれど、池ん中に手網を入れてすくつて見ても、すぐ水が濁つてしまつて鮒の子がどこにゐるのか、判んなくなつちやつたと言ひ、ビニールの袋を差し出して見せたが、中には瘠せた鮒の子が、たつた五ひきしかゐなかつた。何だ五ひきくらゐなら、そこらで買つたつて宜かつたんだ。鮒の子をやるやると言ふもんだから、もつと美事な大きい奴だと思つてゐたら、こんな瘠せた銹び釘みたいなやつは目高の屑みたいだ。大きい鮒の子は野性があつて水の中では泳ぎが美しいと言ふもんだから、いただきたいといつたんだが、こんな銹び釘なんか貰ひ損みたいだと私はいつた。鮒の子は東京では手にはいらないから、ひよつとすると變つた鮒の子もこの世に生存してゐるかも知れないと、ばかな私は若鮎くらゐある鮒の子が、ななえによつて搬ばれることを愉しい一つ事にかぞへてゐた。どんな處に途方もない尾鰭のいきいきした鮒の子が生きてゐるかも判らない、つまりななえの家の池には奇蹟の鮒の子が泳いでゐるやうな氣がしてゐるのである。
 池は小さいが、戰爭前後から打つちらかしてあつて、鮒の子ばかり年々にふえてゐた。舊地方長官の父親が、病死してからななえは一人になり、屋敷と庭そつくりで七百萬圓の値踏みがついたことで、ななえは奇蹟の金持ちになる筈だが、それも別の土地賣買人の計算では千萬圓くらゐになる見込みがあるといふので、ななえはそこで千萬圓の方に鷺宮に口を利いて貰つて話をすすめたのだ。
 この屋敷で地方長官の父を十七年も看護した忠實な家政婦のかんさんが、一さいの家政の切り盛をやり、ななえもかんさんの言ひなりになる仕向けをうけてゐた。かんさんは屋敷が賣り物になり千萬圓もすると聞いてから、ななえが二階で寢た時分、納戸や押入に顏を突つ込み、更けるまで明日の食事のための搜し物をしてゐた。古い屋敷で歩くと何處からか軋る物音が立つ。そんな時に小用で下りて來たななえは階段では音を立てなかつたが、中の襖を開けた時にかんさんは氣づいて押入の中に隱れることがあつた。ななえはそんな事に氣のつく女ではない、そのまま二階にあがつて行く。よく肥つたかんさんは押入から出ると、主家のために盡したことでも、つい、ぺろりと舌を出してみせた。ななえの暢氣さうな惡考へをもたない性分を知つてゐるかんさんは、夜更けにこの屋敷内の物と品に見當をつけて置けば何時でも處分することが出來た。ななえの親戚關係はただ一人の甥の鷺宮だけで、平常は滅多に來ないし屋敷賣立も千萬圓の方に傾いてから、その賣買事務の外に用事もなかつた。
 ななえは七百萬圓でも千萬圓でも、孰方でもよささうな顏つきをしていた。すくなくとも他人にはさう見えたのだ。七百萬圓よりか千萬圓の方は勿論宜いに違ひないが、それが簡單に三百萬圓の開きがあることが肯づけないのである。古い屋敷と…

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