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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
作品ID55693
副題152 棟梁の娘
152 とうりょうのむすめ
著者野村 胡堂
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第二十九卷 浮世繪の女」 同光社
1954(昭和29)年7月15日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2017-10-26 / 2017-09-28
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 深川熊井町の廻船問屋板倉屋萬兵衞、土藏の修覆が出來上がつたお祝ひ心に、出入りの棟梁佐太郎を呼んで、薄寒い後の月を眺めながら、大川を見晴らした、二階座敷で呑んでをりました。
 酌は醗酵し過ぎたやうな大年増、萬兵衞の妾でお常といふ、昔は隨分美しくもあつたでせうが、朝寢と美食と、不精と無神經のために、見事に脂肪が蓄積して、身體中のあらゆる關節に笑靨の寄るといつた、大變な大年増でした。
「あれまア、月が」
 などといひながら、欄干の方へよち/\膝行つて、品を作つて柱に絡むとそのまゝ『美人欄に寄るの圖』にならうといつた――少なくとも本人はさう信じて疑はない性の女だつたのです。
 九月十三夜の赤銅色の月が、洲崎十萬坪あたりの起伏の上に、夕靄を破つてぬツと出る風情は、まことに江戸も深川でなければ見られない面白い景色でした。
「成程こいつは良い。深川に生れて深川に育つても、こちとらの長屋の縁側からぢや、お隣りの物干が邪魔をして、こんなお月樣は拜めねえ」
 棟梁の佐太郎は、主人萬兵衞と一緒に一本あけて、ホロツと來た樣子でした。氣性も身體も引緊つた四十男、そのくせお店の新造といはれてゐる萬兵衞の妾のお常の豐滿な魅力には、妙に誘惑を感じてゐるらしく、席を立つて女の背後に行くと、頬と頬とが觸れるやうに欄干に凭れて、パンパンと柏手を打つのです。
 おとくい先のお妾にちよつかいを出すのと、お月樣を拜むのとは、全く別な人格と意圖とに出ることで、一緒にやらかしても、一向良心に恥ぢないのが、この時代の市井人のモラルでした。
 わけても佐太郎は、四十過ぎの分別者のくせに、好い男で浮氣者でもあつたのです。
「お月樣は明日の晩も出るよ、――さア、親方の好きな熱いのが來たぜ」
 萬兵衞は後ろから聲をかけました。西に殘る夕映えと、東から昇る月の光をたよりに、まだ灯は點けませんが、お常と佐太郎の如何はしい態度は、醉つた萬兵衞からもよく見えます。
「へエ、相濟みません。折角の十三夜だから、揚幕から出たお月樣を褒めてあげなきや」
 佐太郎はそんな下らない洒落をいひながら、席に戻つて杯を擧げます。
「私は知つての通り酒が弱いから、とても親方と附き合つちや行けない、――ちよいと横になるから」
 二本目の徳利から、一口呑みかけた猪口を下に置いて、萬兵衞はお常の膝を引き寄せて横になりました。五十を越したばかり、痩せて骨張つてはをりますが、精力的で金儲けが上手で、一代に江戸でも何番といはれた富を築いただけの強かさがあります。
 その時番頭の忠助は、燭臺を持つて下から昇つて來ました。これは三十五六の柄の大きい、ぽーつとした感じの男ですが、調子にはなか/\如才ないところがあります。
「ちよいとお邪魔いたします」
 忠助は縁に吊した三つの提灯に灯を入れて、フト主人の方を振り返りましたが、
「旦那、どうかなさいました…

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