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詩と現代
しとげんだい
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
初出「早稲田大学新聞 第五十一号」1936(昭和11)年10月14日
入力者村松洋一
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-04-04 / 2015-03-31
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 由来芸術と時代との関係は、屡々取扱はれる所ではあるけれどもその問題本来の性質のせゐか、ハツキリとした結論に到達してゐる場合は、極めて稀である。そこで私は今此の問題を全体的に扱はうとする気持をなるたけ自分から排除したいやうに思ふ。その方が却て容易に真実に近づくことが出来るやうに思へるからだ。
 扨、現代が芸術にとつて、好都合な時代でないといふことは、漠然と乍ら、既に誰人の胸にも抱懐されてゐる所である。そして、恐らくそれは当つてもゐよう。勿論時代といふものは極めて包括的に観る場合にのみその姿を現すがやうなものであるから、現代が芸術のためには明かに不幸な時代であるとしてからが、それは必ずしも芸術家個人々々にまで直ちに不幸な時代といふことを意味しはしまい。然るに、とまれ、芸術が世界を通じて昨今衰微してゐることは争はれない所であらう。
 私はその衰微の原因の第一として、先づ論理的性格の欠乏といふことを指摘したい。――芸術といふものが、卑近な意味では、屡々女性的なものだとせられ、甚だしくは論理を無視する処から発生するとさへ考へられるにも拘らず、実は、芸術くらゐ論理的な謂はゞ男性的な性格と環境とを必要とするものはないやうに思はれる。之を倫理的にいひ直してみれば、信義ある時代にこそ芸術は容易に発展するものなのである。
 そんなわけで、信義に乏しい現今は、芸術家達が、恐らく甚だしい孤独に逐ひ込められてゐる筈である。信義に乏しい世間の前に、個人の信義は如何にも無力なものだし、もはや信義に篤からんがためには、人は自室に引籠るよりほかはないといふも過言ではない程だ。斯かる時純粋芸術が在りとするや、芸術が幸福な時代におけるよりも却てそれは謂はば純粋に過ぎる、純粋もいいが線が細過ぎる、といふやうなことが、いへるといふやうなことはなからうか?

     ×        ×

 話頭一転、信義なき対人圏にあつて、芸術家が何を得るとしても何れは僅かなものである。出鱈目を相手に、精神的な何が得られよう? 斯かる時芸術家が、否応なしに逐ひやられるのは風物の方へであり、世間がセチ辛くなればなる程、詩の方は却て浮世離れがして来るなぞといふことも、ありさうでないことではない。登山やハイキングなぞの流行といふこともそんな風なことかも知れぬ。
 扨、信義のない所にでも発達するものは、何であらうか? 信義がないからといつて、人間同志が会はなくてすむやうになるわけはない。かくてそこには心理的な発達が、精神の発展を踏み越えて進み出すのである。而して茲で謂ふ心理的発展とは、所詮修辞的発達の意である。
 私の観る限りにおいて、現今社会は恐ろしく修辞的であり、謂はば人々は如才なさ、抜目のなさを獲得しようとする時にばかり、全的に活気を呈するといつた有様である。
 而も猶一方、その「修辞的」だけにも安住しきれないも…

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